神話・宗教・伝説

【ギリシア神話の原典⑤】ギリシア悲劇 ― オレステイア・オイディプス王・メデイアを解説

【ギリシア神話の原典⑤】ギリシア悲劇 ― オレステイア・オイディプス王・メデイアを解説

当サイトを閲覧いただきありがとうございます。本記事は、ギリシア神話の原典を解説するシリーズの第5弾です。

これまで、ヘシオドスの『神統記』、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』、そしてアポロドーロスが伝える英雄たちを見てきました。今回は、ギリシア神話を伝えるもう一つの重要な原典群「ギリシア悲劇」を解説します。紀元前5世紀のアテナイで、劇場という場で上演された神話――そこには、叙事詩とはまた違う、人間の運命を見つめる深いドラマがあります。

ギリシア神話の原典全体の見取り図については、以下のまとめ記事を参照してください。

【神話・宗教の原典解説】ギリシア神話の原典まとめ ― 主要な古典と全記事の一覧senkohome.com/myths-religions-origins-greek/

ギリシア悲劇とはどんな原典か

項目内容
成立紀元前5世紀のアテナイ(ディオニュソス祭の演劇競演)
作者三大悲劇詩人(アイスキュロス・ソポクレス・エウリピデス)
現存三人あわせて約33編(上演された作品のごく一部)
性格神話を素材に、運命・正義・人間の苦悩を問う戯曲

ギリシア悲劇は、酒と演劇の神ディオニュソスを祀る祭りで、競演として上演された演劇です。詩人たちは、誰もが知る神話を素材に取りながら、そこに「人間はいかに生きるべきか」という問いを刻み込みました。神話が、語り継がれる物語から「考えるための舞台」へと深化した瞬間です。

担い手となったのが、三大悲劇詩人です。

詩人特徴代表作
アイスキュロス(前525頃〜456)悲劇の父。神々の正義を荘重に描く『オレステイア』三部作
ソポクレス(前496頃〜406)構成の名手。運命と人間の尊厳『オイディプス王』『アンティゴネ』
エウリピデス(前480頃〜406)人間の情念を生々しく描く『メデイア』『バッカイ』

それぞれ90編・120編以上を書いたと伝えられますが、完全な形で現存するのは三人あわせてわずか33編ほど。それでもこの一握りの戯曲が、シェイクスピアから現代演劇・映画まで、世界の物語の骨格を作り続けてきました。

本記事で扱うギリシア悲劇の名作 『オレステイア』三部作 アガメムノン殺害と復讐の連鎖 → 法廷の誕生で幕 『オイディプス王』 運命から逃れられるか +『アンティゴネ』 『メデイア』 裏切られた女の復讐 わが子殺しの衝撃 『バッカイ』 神を侮った王の末路 ディオニュソスの神罰 ※ いずれも神話の登場人物を主役に、紀元前5世紀のアテナイの劇場で上演された

ラルース ギリシア・ローマ神話大事典ラルース ギリシア・ローマ神話大事典Amazonで見る → 神々を知ればもっと面白い! ギリシャ神話の教科書神々を知ればもっと面白い! ギリシャ神話の教科書Amazonで見る →

『オレステイア』三部作 ― 復讐の連鎖は、どこで終わるのか

アイスキュロスの『オレステイア』は、現存する唯一の悲劇三部作です。題材は、トロイア戦争のギリシア軍総大将アガメムノンの一族――呪われたアトレウス家に積み重なる、血の復讐の連鎖です。

第1部『アガメムノン』― 凱旋した王の最期

トロイアを陥として10年ぶりに凱旋したアガメムノンを、妃クリュタイムネストラが迎えます。しかし、その笑顔の裏には殺意がありました。彼女は、夫が出征のときに娘イピゲネイアを、艦隊の風を得るいけにえとして殺したことを、決して許していなかったのです。

クリュタイムネストラは、湯あみする夫に網のような衣を投げかけ、身動きを封じて斬殺します。アガメムノンが連れ帰った捕虜の王女カサンドラ――真実を予言しても誰にも信じてもらえない呪いを受けた巫女――は、自らの死をも予見しながら、館の中へ歩み入って共に殺されました。

第2部『供養する女たち』― 息子の復讐

年月が流れ、成長した王子オレステスが、姉エレクトラと再会します。アポロンの神託は、彼に父の仇討ちを命じていました。しかしその仇とは、実の母です。

オレステスは正体を偽って館に入り、母の情夫アイギストスを討ち、ついに母クリュタイムネストラに刃を向けます。「お前を産み、育てた、この乳房を見よ」と訴える母。一瞬ためらったオレステスは、それでも神託に従い、母を手にかけました。その直後――彼の目に、母の血の復讐を求める復讐の女神「エリニュス」たちの姿が映り始めます。オレステスは狂乱し、逃亡します。

第3部『慈みの女神たち』― 裁判の誕生

エリニュスに追われ続けるオレステスは、アテナイの女神アテナのもとへ逃れます。アテナが下した解決策こそ、この三部作の核心でした。「この件は、裁判で決める」――人類初の殺人裁判が、アレオパゴスの丘で開かれるのです。

アポロンが弁護に立ち、エリニュスが告発し、アテナイ市民が陪審を務めます。評決は同数。最後にアテナが無罪に一票を投じ、オレステスは救われました。敗れたエリニュスたちも、アテナの説得により、都市を守る「慈みの女神(エウメニデス)」へと姿を変えます。

血には血を、という果てしない復讐の連鎖が、「法と裁判」によって断ち切られる――。神話の形を借りて、人類が復讐から法治へと歩み出す瞬間を描いたこの結末は、ギリシア悲劇の最高峰と讃えられています。

『オイディプス王』― 運命と人間の尊厳

ソポクレスの『オイディプス王』は、しばしば「最も完璧な悲劇」と呼ばれます。記事④で見たオイディプスの神話(父を殺し母を娶るという予言)を、ソポクレスは「真相を追う捜査劇」として構成し直しました。

物語は、疫病に苦しむテーバイから始まります。原因は「先王殺しの穢れ」。名君オイディプスは、犯人を必ず突き止めると誓い、自ら調査に乗り出します。しかし、盲目の予言者テイレシアスの警告、王妃イオカステの証言、年老いた羊飼いの告白――手がかりが集まるほどに、追い詰められていくのは、ほかならぬ自分自身でした。先王殺しの犯人はオイディプス本人であり、王妃は実の母だったのです。

すべてを悟ったイオカステは自ら命を絶ち、オイディプスは彼女の衣の留め金で自らの両眼を突き、光を捨てました。観客は結末を初めから知っています。それでも、真実へ向かって歩み続ける男の姿から目を離せない――知ろうとする人間の誠実さが、そのまま破滅への歩みになるという構成の力が、この劇を不朽のものにしました。

なお晩年のソポクレスは、続編『コロノスのオイディプス』で、放浪の果てのオイディプスがアテナイ郊外で神々に迎えられ、静かに姿を消す結末を描いています。運命に翻弄され尽くした男の、救いのような最期です。

『アンティゴネ』― 国の掟か、神の掟か

同じソポクレスの『アンティゴネ』は、オイディプスの娘の物語です。オイディプスの死後、テーバイの王位をめぐって争った二人の息子は相討ちで果てます。新王クレオンは、都に攻め寄せた側のポリュネイケスの埋葬を禁じ、野ざらしにせよと布告しました。

これに敢然と背いたのが、妹アンティゴネです。彼女は死を覚悟で兄に砂をかけて葬り、王の前でこう言い放ちます。「あなたの布告ごときが、書かれざる神々の掟を超えられるとは思いません」

国家の法か、それより古い神の掟(死者を葬る義務)か。クレオンはアンティゴネを岩屋に生きながら閉じ込めますが、預言者の警告に怯えて翻意したときには遅く、アンティゴネは自害し、彼女の婚約者だったクレオンの息子も、妃も、後を追いました。すべてを失ったクレオンの嘆きで幕が下ります。権力と良心の衝突を描いたこの劇は、今日まで政治哲学の教材であり続けています。

『メデイア』― 裏切られた女の復讐

エウリピデスの『メデイア』は、記事④で見た金羊毛の冒険の「その後」を描きます。祖国も家族も捨てて英雄イアソンに尽くした魔女メデイアは、コリントスで夫に捨てられます。イアソンが、王女との再婚を選んだのです。

エウリピデスは、復讐を決意するまでのメデイアの心を、徹底的に内側から描きました。彼女はまず、毒を塗った衣で王女と王を焼き殺します。そして最後に、イアソンを最も深く傷つける手段として、自らの二人の子に手をかけるのです。我が子への愛と、復讐心との間で引き裂かれる独白――「自分が何をしようとしているかは分かっている。だが、怒りが分別より強いのだ」――は、ギリシア悲劇でも屈指の名場面とされます。

幕切れで、メデイアは竜の車に乗って天空へ去り、イアソンは何もかも失って取り残されます。英雄叙事詩の「都合のよい結末」を拒み、捨てられた女の側から神話を語り直したこの劇は、上演から2400年を経た今も、世界中の舞台にかかり続けています。

『バッカイ』― 神を侮った王の末路

エウリピデス最晩年の傑作『バッカイ(バッコスの信女たち)』は、悲劇を生んだ神ディオニュソス自身が主役の物語です。

テーバイの若き王ペンテウスは、新しくやってきたディオニュソスの祭儀を「いかがわしい狂乱」として弾圧します。神は人間の姿で王の前に現れ、好奇心を巧みにくすぐって、女装させ、信女たちの秘儀を覗き見るよう誘い出しました。

山中で見つかったペンテウスは、神がかりした信女たちに獣と見間違えられ、生きながら八つ裂きにされます。しかも、その先頭に立ったのは、わが子と気づかぬ実の母アガウエでした。彼女は息子の首を獅子の獲物と信じて誇らしげに掲げ、正気に返って絶叫します。人間の理性を超えた力を侮ることの恐ろしさを、これほど苛烈に描いた劇はありません。

悲劇という原典の意味

ギリシア悲劇は、神話の「結末」を変えずに、その「意味」を問い直した原典です。

叙事詩が英雄の栄光を歌ったのに対し、悲劇は同じ神話から、復讐の連鎖を断つ法の誕生(オレステイア)、運命と知の衝突(オイディプス王)、国家と良心(アンティゴネ)、捨てられた者の声(メデイア)、理性の傲慢(バッカイ)という普遍の問いを取り出しました。アリストテレスが『詩学』で論じた「カタルシス(感情の浄化)」の理論も、これらの劇から生まれています。神話を「考える道具」に変えたこと――それが、ギリシア悲劇が世界文学に残した最大の遺産です。

もっと深く知りたい方へ

関連する書籍も紹介します。あわせて読むと、この世界がいっそう深く味わえます。

ギリシャ神話集 (講談社学術文庫)ギリシャ神話集 (講談社学術文庫)Amazonで見る → 世界でいちばん素敵なギリシア神話の教室世界でいちばん素敵なギリシア神話の教室Amazonで見る →

まとめ

本記事では、ギリシア神話のもう一つの原典「ギリシア悲劇」を、三大悲劇詩人の名作に沿って解説しました。如何だったでしょうか。

復讐の連鎖を法で断ち切る『オレステイア』、真実を追って破滅する『オイディプス王』、神の掟に殉じた『アンティゴネ』、裏切られた女の『メデイア』、神罰の『バッカイ』――。紀元前5世紀の劇場で、神話が「人間とは何か」を問う舞台へと生まれ変わったことを、感じていただけたかと思います。

これで、ギリシア神話の原典シリーズ全5記事が完結しました。他の神話・宗教の原典も解説しています。全体の一覧は世界の神話・宗教の原典まとめからどうぞ。

【神話・宗教の原典解説】世界の神話・宗教の原典まとめ ― 各神話の解説一覧senkohome.com/myths-religions-origins/

それでは次の記事も閲覧いただけると幸いです。