当サイトを閲覧いただきありがとうございます。本記事は、ユダヤ教の原典を解説するシリーズの第4弾です。
これまで、ユダヤ教の聖典(タナハ・タルムード)の中身を見てきました。今回は視点を変えて、ユダヤ教徒が実際に「何を信じ、どう暮らしているのか」という、信仰と実践の世界を見ていきます。
ユダヤ教の原典全体の見取り図については、以下のまとめ記事を参照してください。
マイモニデスの十三信条
ユダヤ教には、キリスト教の「使徒信条」のような公式の信仰箇条が、長らくありませんでした。実践(律法を守ること)を重んじるユダヤ教では、教義をきっちり定義する必要が薄かったのです。
そんな中、12世紀の大学者「マイモニデス」が、ユダヤ教徒が信じるべき事柄を13項目にまとめました。これが「十三信条」で、今日まで最も広く受け入れられた信仰の要約となっています。
ここで注目したいのが、最後の「救世主(メシア)が必ず来る」という項目です。「来た」ではなく「来る(まだ来ていない)」という点に、キリスト教との決定的な違いが表れています。これは記事の後半で改めて触れます。
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シェマ ― 一日の信仰の中心
13信条が学者による要約だとすれば、ユダヤ教徒が毎日となえる信仰の核心が「シェマ」です。これは申命記の一節で、こう始まります。
聞け、イスラエルよ。主は我らの神、主は唯一である(シェマ・イスラエル)
この短い一句が、ユダヤ教の根幹である徹底した一神教を宣言しています。神はただ一つであり、複数でも、分割できるものでもない――。
実はこの一神教の純粋さゆえに、ユダヤ教はキリスト教の「三位一体(父・子・聖霊が一つの神)」を、神を3つに分けるものとして認めません。一方で、同じく厳格な一神教を掲げるイスラム教の「タウヒード(神の唯一性)」とは、この点で深く響き合っています。神の「唯一性」をどう考えるかが、3宗教を分ける一つの軸なのです。
安息日(シャバット)― 何もしない聖なる日
ユダヤ教の実践で最も有名なものの一つが、週に一度の安息日「シャバット」です。
これは、神が天地創造の7日目に休んだ、という記述(および十戒)に由来します。金曜日の日没から土曜日の日没まで、ユダヤ教徒は一切の「仕事」を休み、家族と過ごし、祈り、学びます。ここでいう仕事には、火をつける、お金を使う、車を運転する、電気のスイッチを入れるといった行為まで含まれ、敬虔な家庭ほど厳格に守ります。
| 宗教 | 安息・集団礼拝の日 |
|---|---|
| ユダヤ教 | 土曜日(金曜日没〜土曜日没のシャバット) |
| キリスト教 | 日曜日(イエスが復活した「主の日」) |
| イスラム教 | 金曜日(集団礼拝ジュムアを行う日) |
三大一神教が、それぞれ異なる曜日を聖なる日とするのは興味深い対比です。
食の規定(コーシェル)
ユダヤ教徒の暮らしを大きく特徴づけるのが、食の規定「コーシェル(カシュルート)」です。「コーシェル」とは「適正な(食べてよい)」という意味です。
- 豚肉は食べてはならない(最も有名な禁忌)
- エビ・カニ・貝などの甲殻類・魚介(ヒレとウロコのない水生動物)は食べてはならない
- 肉類と乳製品を一緒に食べてはならない(チーズバーガーなどは不可。調理器具も分ける)
- 食肉は、定められた作法(シェヒータ)で処理されたものでなければならない
豚肉を禁じる点は、イスラム教の食の規定「ハラール」とよく似ています(イスラム教もユダヤ教の影響を受けています)。一方、キリスト教は基本的に食の禁忌を設けません。これは、キリスト教が成立の早い段階で「人を汚すのは口に入る物ではない」として、食の律法から離れたためです。日々の食卓にまで律法が及ぶかどうかも、3宗教の大きな違いです。
通過儀礼 ― 割礼とバル・ミツワー
ユダヤ教徒の人生には、節目を刻む通過儀礼があります。
男子は、生後8日目に割礼(ブリート・ミラー)を受けます。これは、前回の記事②で見たアブラハム契約のしるしであり、神との契約に入る最初の儀式です。
そして13歳(女子は12歳)になると、「バル・ミツワー(女子はバト・ミツワー)」を迎えます。これは「戒律を担う者」という意味で、この日から一人前のユダヤ教徒として、自ら律法を守る責任を負うとされる、成人式にあたる大切な儀式です。
主要な祭り
ユダヤ教の一年は、聖書に由来する数々の祭りで彩られます。代表的なものを見てみましょう。
| 祭り | 内容 |
|---|---|
| 過越祭(ペサハ) | 出エジプトを記念。種なしパンを食べる。最重要の祭り |
| 七週祭(シャブオット) | シナイ山でトーラーを授かったことを記念 |
| 仮庵祭(スコット) | 荒野の旅を記念し、仮小屋で過ごす収穫祭 |
| ユダヤ新年(ローシュ・ハシャナ) | 角笛を吹き鳴らし、新年と悔い改めの季節を始める |
| 贖罪日(ヨム・キプル) | 一年で最も神聖な日。断食して罪の赦しを願う |
| ハヌカ | 神殿を取り戻した奇跡を祝う「光の祭り」。燭台に灯をともす |
| プリム | エステル記の物語にちなみ、迫害からの救いを祝う |
中でも過越祭は、出エジプトという民族の原体験を毎年たどり直す、最も重要な祭りです。なお、キリスト教の「最後の晩餐」は、実はこの過越祭の食事であったとされ、ここでもユダヤ教がキリスト教の母胎であることがうかがえます。
日々の祈りと、信仰を支える品々
ユダヤ教の信仰は、年に数回の祭りだけでなく、一日一日の祈りと習慣によって支えられています。敬虔なユダヤ教徒は、朝・昼・夕の一日三度の祈りをささげ、その中心には信仰告白「シェマ」(「聞け、イスラエルよ。主は我らの神、主は唯一なり」=申命記6章)が置かれます。
そして、その祈りを形あるものとして支えるのが、トーラーの戒めに由来する独特の品々です。
| 品 | 意味 |
|---|---|
| テフィリン(聖句箱) | 聖句を納めた小箱。朝の祈りの際、革ひもで額と腕に結びつける |
| タリート(祈祷用ショール) | 四隅に房(ツィツィット)のついた肩掛け。祈りのときにまとう |
| メズーザー | 聖句を納めた小さな筒。家の戸口の柱に取りつけ、出入りのたびに触れる |
| キッパー(ヤルムルケ) | 頭頂を覆う小さな帽子。神への畏れの表れとしてかぶる |
これらはいずれも、「これらの言葉をあなたの手に結び、額に付け、家の戸口の柱に記せ」という申命記の一節を、文字どおり実践したものです。神の教えを、頭で覚えるだけでなく、体と暮らしの隅々にまで結びつけて生きる――ここにも、信仰を「実践」としてとらえるユダヤ教の徹底した姿勢が表れています。
メシア(救世主)を待ち望む
最後に、ユダヤ教の信仰の核心ともいえる「メシア(救世主)待望」に触れます。
ユダヤ教徒は、いつの日か神が遣わす理想の指導者「メシア」が現れ、イスラエルを救い、世界に平和をもたらすと信じています。重要なのは、そのメシアはまだ現れておらず、今も待ち望まれているという点です。
ここに、キリスト教との最大かつ決定的な違いがあります。キリスト教は「イエスこそがそのメシア(キリスト)だった」と信じます。しかしユダヤ教は、イエスをメシアとは認めませんでした。「メシア」を意味するギリシア語が「キリスト」です。つまり「イエスはメシアか否か」という一点が、ユダヤ教とキリスト教を2000年前に分けたのです。この最大の論点については、次回の記事⑤でさらに詳しく比較します。
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まとめ
本記事では、ユダヤ教徒の信仰と日々の実践を詳しく解説しました。如何だったでしょうか。
ユダヤ教の信仰は、マイモニデスの十三信条に要約され、毎日となえる「シェマ」で唯一神を宣言します。そして安息日、コーシェル、割礼、数々の祭りといった具体的な実践を通して、契約の民としての生き方を全うしようとします。
その根底には、いつか必ず来るメシアを待ち望むという希望があります。この「まだ来ていない」という姿勢こそ、「すでに来た」とするキリスト教との分かれ目でした。
次回の記事⑤(最終回)では、いよいよユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三大一神教を正面から比較し、あわせてユダヤ教内部の分派やカバラを解説していきます。
それでは次の記事も閲覧いただけると幸いです。
📚 シリーズ:ユダヤ教の原典解説(5/6)