当サイトを閲覧いただきありがとうございます。本記事は、仏教の原典を解説するシリーズの第2弾です。
前回(記事①)は、ブッダの生涯と根本の教えを解説しました。今回は、その教えがブッダの死後にどのように経典(三蔵)にまとめられ、上座部と大乗という2つの流れに分かれていったのかを見ていきます。
仏教の原典全体の見取り図については、以下のまとめ記事を参照してください。
ブッダは一冊も書き残さなかった
まず押さえておきたいのは、ブッダ自身は、教えを一切書き残さなかったということです。
ブッダの教えは、あくまで弟子たちへの口頭での説法でした。当時のインドでは、神聖な教えは文字に記すよりも、暗誦して正確に受け継ぐのが尊いとされていたためです(ヴェーダの口伝とも共通します)。そのため、ブッダの死後、残された弟子たちは大きな課題に直面します。「師の教えを、正しく・散逸させずに、後世へ伝えるにはどうすればよいか」。その答えが、次に述べる「結集」でした。
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結集(けつじゅう)― 教えの編集会議
「結集(けつじゅう)」とは、弟子たちが集まって、それぞれが記憶するブッダの教えを持ち寄り、確認し合い、公式の教えとして編集・確定する会議のことです。
第1回の結集は、ブッダの入滅直後、王舎城(おうしゃじょう)に約500人の優れた弟子(阿羅漢)が集まって行われたと伝えられます。進行役を務めたのは、長老「摩訶迦葉(マハーカーシャパ)」でした。
このとき、ブッダに常に付き従い、誰よりも多くの説法を聞いていた侍者「阿難(アーナンダ)」が、記憶する教えを暗誦しました。経典が「如是我聞(私は、このように聞きました)」という一句で始まるのは、この「阿難が聞いて伝えた」という形式に由来します。また、戒律に詳しい「優波離(ウパーリ)」が、僧団の規則を暗誦しました。
その後も、教団の発展や解釈の違いに応じて、結集は繰り返されました。入滅から約100年後の第2回結集では、戒律の細かな解釈(金銭の受け取りの可否など)をめぐって意見が対立し、教団は厳格な「上座部」と、柔軟な「大衆部」とに分かれます。これを「根本分裂」と呼び、ここから仏教は二十ほどの部派に枝分かれしていきました(部派仏教)。さらに、仏教を篤く保護したアショーカ王の時代(前3世紀)には第3回結集が行われ、各地へ伝道師が派遣されたと伝えられます。
そして決定的だったのが「文字化」です。長らく口伝で守られてきた教えは、紀元前1世紀ごろのスリランカで、飢饉や戦乱によって暗誦の担い手が絶えることを恐れた僧たちの手で、ついに文字(貝葉=椰子の葉)に書き留められました。口から口へ伝えられた教えが、初めて「書物」となった瞬間です。こうして、ブッダの教えは散逸を免れ、現在に伝わることになりました。
三蔵(さんぞう)― 仏典の3つの分類
結集を通じて整理された仏典は、その性格によって3つに分類されました。これが「三蔵(さんぞう)」です。「蔵(ピタカ)」とは「籠・容れ物」の意味で、教えを収めた入れ物を表します。
| 三蔵 | 内容 |
|---|---|
| 経蔵(きょうぞう) | ブッダの説法(教え)を集めたもの。「スートラ(経)」 |
| 律蔵(りつぞう) | 出家者の守るべき戒律・僧団の規則を集めたもの |
| 論蔵(ろんぞう) | 教えを学問的に分析・注釈したもの。「アビダルマ(論)」 |
このうち「論蔵」は、ブッダ自身の言葉ではなく、後の弟子たちが教えを哲学的に研究・整理したものです。三蔵すべてに精通した僧を「三蔵法師」と呼び、『西遊記』の三蔵法師(玄奘)はその称号で知られています。
最古の原典 ― パーリ仏典
現存する仏典の中で、ブッダの時代に最も近い古い形を伝えるとされるのが、「パーリ仏典(パーリ三蔵)」です。
これは、当時の口語に近い「パーリ語」で伝えられた三蔵で、長く口伝されたのち、紀元前1世紀頃にスリランカで文字に書き留められたとされます。現在の上座部仏教(後述)が依拠する根本聖典です。
その経蔵は、内容や長さによって5つの部(ニカーヤ)に分かれています。
| パーリ経蔵の五部 | 内容 |
|---|---|
| 長部(ディーガ・ニカーヤ) | 長い経典を集めたもの |
| 中部(マッジマ・ニカーヤ) | 中くらいの長さの経典 |
| 相応部(サンユッタ・ニカーヤ) | 主題ごとに集めた短い経典 |
| 増支部(アングッタラ・ニカーヤ) | 数字にちなんで分類した経典 |
| 小部(クッダカ・ニカーヤ) | 上記に収まらない諸経典 |
中でも、最後の「小部」に収められた「法句経(ダンマパダ)」は、ブッダの教えを短い詩句で表した珠玉の経典として、世界中で広く愛読されています。「心がすべてに先立つ。心が主であり、心によってつくられる」といった平易で力強い言葉が並び、仏教入門の書としても親しまれています。
漢訳大蔵経 ― 東アジアへ伝わった膨大な経典群
一方、仏教が中国へ伝わると、膨大な経典が漢文に翻訳されていきました。この漢訳経典の集大成を「大蔵経(だいぞうきょう)」あるいは「一切経」と呼びます。日本や朝鮮の仏教は、主にこの漢訳大蔵経をよりどころとしています。
翻訳には、歴史に名を残す名僧たちが携わりました。
- 鳩摩羅什(くまらじゅう):5世紀頃に活躍した訳経僧。『法華経』『般若経』『阿弥陀経』など、日本仏教でなじみ深い経典の多くを、名文で漢訳した
- 玄奘(げんじょう):7世紀、危険を冒してインドへ求法の旅に出て、大量の経典を持ち帰り翻訳した。『西遊記』の三蔵法師のモデル
近代以降、日本ではこれら膨大な漢訳経典を校訂・集大成した「大正新脩大蔵経(たいしょうしんしゅうだいぞうきょう)」が編まれ、今日の仏教研究の標準となっています。その規模は100巻・数千の経典にのぼり、聖書をはるかに上回る、世界最大級の宗教文献群です。
上座部と大乗 ― 仏教の二大潮流
仏典の成立を語るうえで欠かせないのが、仏教が大きく2つの流れに分かれたことです。
ブッダの死後しばらくすると、戒律や教えの解釈をめぐって、教団は次第に分裂していきます(根本分裂)。やがて多くの部派に分かれて教えを研究する「部派仏教」の時代が訪れ、論蔵(アビダルマ)が発達しました。
そして紀元前後、こうした流れに対して、新しい仏教運動が起こります。
| 潮流 | 理想とする生き方 | 主な原典・地域 |
|---|---|---|
| 上座部仏教 | 出家して修行し、自ら悟りを開く(阿羅漢) | パーリ仏典/スリランカ・東南アジア |
| 大乗仏教 | 自分だけでなく、生きとし生けるものすべてを救う(菩薩) | 般若経・法華経など/中国・日本・チベット |
新しい運動は、出家者中心で「自らの悟り」を重んじる従来の仏教を「小さな乗り物(小乗)」と批判し、「すべての人を救いに運ぶ大きな乗り物」という意味で、自らを「大乗(だいじょう)」と称しました(※「小乗」は大乗側からの呼称で、現在は中立的に「上座部」と呼びます)。
この大乗仏教は、『般若経』『法華経』『浄土三部経』といった、ブッダの直説とは形式の異なる新しい経典を次々と生み出していきます。私たち日本人になじみ深い経典の多くは、この大乗のものです。その豊かな世界は、次回の記事③で詳しく解説します。
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まとめ
本記事では、仏教の原典「三蔵」の成立と構成を詳しく解説しました。如何だったでしょうか。
ブッダが書き残さなかった教えは、弟子たちの「結集」によって暗誦・編集され、経・律・論の三蔵となりました。それは最古のパーリ仏典と、膨大な漢訳大蔵経として伝わり、やがて上座部仏教と大乗仏教という二大潮流に分かれていったのです。
次回の記事③では、日本仏教の主流である「大乗仏教」と、般若経・法華経・浄土三部経といった主要な経典を、わかりやすく解説していきます。
それでは次の記事も閲覧いただけると幸いです。
📚 シリーズ:仏教の原典解説(3/6)