当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「ベリーのパラドックス」について解説します。
「20文字以内で言い表せない最小の自然数」という表現を考えてみます。そういう数はきちんと存在するのですが、よく見るとこの表現自体が19文字しかありません。20文字以内で言い表せないはずの数を、20文字以内で言い表してしまったことになります。オックスフォードの図書館員が見つけ、ラッセルが世に紹介した有名な難問です。
20文字で言い表せない数を考える
まず、日本語の文字を使って自然数を言い表すことを考えます。
「三」は1文字で3を表しています。「百万」は2文字で1000000です。「二の十乗」なら4文字で1024を指せます。工夫すれば、短い文字数でかなり大きな数を表現できます。
とは言っても、使える文字数に上限を設ければ、表現できる数にも限りが出てきます。ここでは上限を20文字としておきます。
では「20文字以内では、どうやっても言い表せない自然数」はあるでしょうか。あるとすれば、そうした数の中で最も小さいものが1つ決まるはずです。
その数を指すために、次のように書きます。
20文字以内で言い表せない最小の自然数
数えてみると、この表現はちょうど19文字です。20文字以内に収まっています。
要するに、この数は、20文字以内で言い表せないはずなのに、いま19文字で言い表されてしまいました。
そんな数は本当に存在するのか
先に、逃げ道をひとつ塞いでおきます。「そんな数は存在しないのでは」という反論です。
日本語で使える文字の種類は有限です。仮に1万種類としましょう。20文字以内の文字列は、どれだけ多く見積もっても1万の20乗通りしかありません。とてつもなく大きい数ですが、それでも有限です。
一方、自然数は無限にあります。有限個の表現で無限個の数すべてに名前を付けることはできませんから、必ずどこかに「20文字以内では表せない数」が残ります。
そして自然数の集まりには、空でない限り必ず最小の要素があります。これは自然数の基本的な性質です。
というわけで、問題の数は確かに存在します。存在するのに、名指しした途端に矛盾するというところが厄介なことになります。
矛盾はどこで起きているのか
この議論の弱点は、「言い表せる」という言葉そのものにあります。
上の議論では、20文字以内の表現が何を指すかを一つひとつ確定できる前提で話を進めていました。ところが「20文字以内で言い表せない最小の自然数」という表現自体も、20文字以内の日本語です。
すると、この表現が何を指すかを決めるためには、20文字以内のすべての表現が何を指すかがすでに決まっている必要があります。その中には自分自身も含まれています。
自分が何を指すかを決めるために、自分がすでに何を指しているかを知っていなければならない。ここで循環が起きています。嘘つきのパラドックスが「この文は偽である」で行き詰まるのと、まったく同じ構造です。
言い換えると、この議論が示しているのは自然数についての矛盾ではありません。「言い表せる」という言葉が、その言語自身の中では定義できないという事実の方です。
図書館員ベリーとラッセル
このパラドックスに名前を残しているG・G・ベリーは、数学者ではなく、オックスフォード大学ボドリアン図書館の司書でした。
彼はこの問題を手紙にしたためてバートランド・ラッセルに送ります。ラッセルは1908年の論文でこれを紹介し、考案者としてベリーの名を明記しましたので、今日までベリーのパラドックスと呼ばれています。
当時のラッセルは、自分が見つけたラッセルのパラドックスによって集合論の土台が揺らいだ問題に取り組んでいる最中でした。「自分自身を含まない集合すべての集合」で起きた矛盾と、ベリーの矛盾は種類が違います。
ラッセルのパラドックスが集合という数学的対象で起きるのに対し、ベリーのパラドックスは「言い表す」という言葉の意味の側で起きます。前者を論理的パラドックス、後者を意味論的パラドックスと呼んで区別することが多いです。
定義できるという言葉のあいまいさ
意味論的パラドックスについては、1930年代にアルフレト・タルスキが決定的な整理を与えました。
タルスキが示したのは、ある言語における「真である」という概念は、その言語自身の中では定義できないということです。定義しようとすると必ず矛盾が生じます。
真理を扱うには一段上の言語が必要になる。その上の言語の真理を扱うには、さらにその上が要る。こうして言語を階層に分けてしまえば、循環は起きません。
ベリーのパラドックスに出てくる「言い表せる」も、これとまったく同じ扱いになります。日本語の中で日本語の表現力を語ろうとしたことが問題であって、外側から見れば矛盾は消えます。
私はこの解決を知ったとき、逃げているような気もしたのですが、よく考えると「ものさし自身をそのものさしで測れない」という当たり前の話でもあり、今では自然な結論だと感じています。
チャイティンが見つけた使い道
面白いことに、このパラドックスは後に強力な道具として使われました。
1970年代、グレゴリー・チャイティンはベリーのパラドックスを形式化することで、独自の不完全性定理を証明します。着眼点は、「短く言い表せない」を「短いプログラムでは出力できない」に置き換えたことでした。
ある数を出力する最短プログラムの長さを、その数の複雑さと考えます。すると、ある一定の長さを超える複雑さは、その体系の中では証明できないという結論が出てきます。
体系には自分の限界を測れない上限がある。ゲーデルの不完全性定理を、情報の量という別角度から言い直した形になっているのだと思います。
図書館員が思いついた言葉遊びが、計算の限界を測る定理に化けたという話になります。パラドックスは壊すためだけのものではなく、ときには道具になるという良い例だと思います。
パラドックスを2種類に分けたラムゼー
ベリーのパラドックスの位置づけをはっきりさせたのは、イギリスの数学者フランク・ラムゼーです。1926年に、自己言及から生じる矛盾を2つの型に分類しました。
論理的なものと意味論的なもの
| 名前 | 型 | 矛盾の材料 | 解決の方向 |
|---|---|---|---|
| ラッセル | 論理的 | 集合という数学的対象 | 集合の作り方を制限する |
| ブラリ=フォルティ | 論理的 | すべての順序数の集まり | 同上 |
| 嘘つき | 意味論的 | 「真である」という言葉 | 言語に階層を設ける |
| ベリー | 意味論的 | 「言い表せる」という言葉 | 同上 |
| リシャール | 意味論的 | 「定義できる」という言葉 | 同上 |
分ける基準は、矛盾の材料が数学の中にあるか、言葉の側にあるかです。
論理的パラドックスは数学の土台そのものを壊すので、公理を書き換えるしかありません。一方の意味論的パラドックスは、言葉が自分の意味について語ろうとしたときにだけ起こります。数学は無傷なので、言語の扱いを整理すれば済みます。
同じ型の仲間たち
ベリーと同じ意味論的な型には、よく似た問題がいくつもあります。
・リシャールのパラドックス(1905年):定義できる実数を並べた表から、対角線論法で表にない実数を作る ・グレリング=ネルソンのパラドックス(1908年):自分自身に当てはまらない形容詞を「非自己記述的」と呼ぶとき、この語自体は非自己記述的か
グレリングの例が分かりやすいと思います。「短い」という語は短いので自己記述的、「長い」という語は長くないので非自己記述的です。では「非自己記述的」という語はどちらでしょうか。
当てはまるなら当てはまらず、当てはまらないなら当てはまる。ベリーとまったく同じ形で行き詰まります。言葉が自分を指した瞬間に意味が決まらなくなるという現象は、それだけありふれているということですね。
自己言及の関連パラドックス
自分自身について語ろうとした途端に、意味が定まらなくなる関連パラドックスです。
まとめ
本記事は「ベリーのパラドックス」について解説しました。如何だったでしょうか。
短く言い表せないはずの数を、短く言い表してしまう。矛盾の正体は自然数の側ではなく、「言い表せる」という言葉が自分自身を勘定に入れてしまったことにありました。
数学の議論というより、言葉の使い方をどこまで信用できるかという話です。19文字を数えるだけで底なしの問題に落ちていくところが、このパラドックスの気持ちよさだと思っています。
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