当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「ガリレオのパラドックス」について解説します。
1、2、3、4、5…と無限に続く自然数。その中から、1、4、9、16、25…と平方数(ある数の2乗)だけを取り出します。明らかに平方数の方が「少ない」はずなのに、両者は同じ数だけ存在すると言えてしまう。
この不思議を最初に明確に指摘したのが、あのガリレオ・ガリレイです。無限という概念がいかに私たちの常識を裏切るか、400年前の観察が今でも考えさせてくれます。
自然数と平方数を並べてみる
1638年に出版されたガリレオの著書『新科学対話』の中で、このパラドックスが論じられています。登場人物のサルヴィアティとシンプリチオの対話という形式で、無限の不思議が検討されます。
自然数を順番に並べてみましょう:1、2、3、4、5、6、7、8、9、10… 平方数を並べてみましょう:1、4、9、16、25、36、49、64、81、100…
10までの自然数の中に平方数は3つ(1、4、9)しかありません。100までなら10個、1000までなら31個、10000までなら100個です。数が大きくなるほど、平方数の「密度」はどんどん低くなっていきます。
この傾向は際限なく続きます。n以下の自然数はn個ですが、n以下の平方数は約√n個しかありません。100万以下では自然数100万個に対して平方数は1000個、比率は0.1%です。平方数は自然数に比べてどんどん「まばら」になっていくのです。
このことから、「平方数は自然数より少ない」と結論づけたくなります。
一対一対応の衝撃
しかし一方で、全ての自然数nに対して平方数n²を対応させれば、漏れなく対応がつきます。
| 自然数 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | … | n | … |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 平方数 | 1 | 4 | 9 | 16 | 25 | 36 | … | n² | … |
全ての自然数には対応する平方数があり、全ての平方数には対応する自然数があります。一対一で過不足なく対応するのです。余る自然数も、対応のない平方数もありません。
一対一の対応がつくということは、「同じ数だけある」ということのはずです。
「密度で見ると明らかに少ないのに、一対一対応では同じ数だけある」というのが、このパラドックスです。
ガリレオが下した慎重な結論
ガリレオはこのパラドックスに対して深く悩みましたし、最終的に、「等しい」「より大きい」「より小さい」といった概念は有限の量にしか適用できないと結論しました。
無限の場合にはこれらの概念は意味をなさないので、無限量同士の比較はすべきではないという立場です。ガリレオの言葉を借りれば、「無限量に対しては、一方が他方より大きい、小さい、等しいという属性は適用できない」のだと思います。
この結論は当時としては非常に賢明なものでした。しかし、それは同時に「無限は人間の理解を超える」という諦めでもありました。200年以上後に、この諦めを打ち破る数学者が現れます。
カンターによる革命
19世紀ドイツの数学者ゲオルク・カンターは、ガリレオが回避した問題に正面から取り組みました。
カンターは集合の「大きさ」(濃度)を、「一対一対応がつくかどうか」で定義するという大胆な決断をしました。一対一対応がつく2つの集合は同じ大きさ(同じ濃度)であると定義したのではないでしょうか。
この定義によれば、自然数と平方数は一対一対応がつくので「同じ大きさの無限」です。カンターはこの大きさを「可算無限」(アレフ・ゼロ、ℵ₀)と名付けました。
ガリレオが回避した「部分が全体と同じ大きさ」という現象を、カンターは矛盾ではなく無限の本質的な特徴として受け入れたのです。
無限の定義としてのパラドックス
さらに驚くべきことに、ドイツの数学者リヒャルト・デデキントはガリレオのパラドックスを逆手に取り、「自分自身の真部分集合と一対一対応がつく集合を無限集合と定義する」としました。
つまり、「部分が全体と同じ大きさになる」というのは無限のバグではなく、フィーチャーなのです。有限の世界では部分は必ず全体より小さいですが、無限の世界ではこの常識が成り立ちませんし、それこそが、無限を無限たらしめている本質的な性質なのです。
この定義によれば、ガリレオのパラドックスはパラドックスではなくなります。「部分と全体が同じ大きさになる」のは無限であることの証明にすぎないのですから。
偶数も素数も有理数も同じ大きさ
ガリレオのパラドックスは平方数に限った話ではありません。同じ論法で、自然数と偶数、自然数と奇数、自然数と素数も一対一対応がつくことが示せます。
さらにカンターは、自然数と有理数(分数全体)の間にも一対一対応がつくことを証明しました。直感的には自然数と自然数の間に無限に多くの有理数がある(1と2の間に1/2、1/3、1/4…が詰まっている)のに、全体としては同じ大きさなのです。
一方で、カンターは対角線論法によって実数は自然数より「真に大きい無限」であることも証明しました。無限にも大きさの違いがあるという衝撃的な発見です。ガリレオのパラドックスから始まった無限の探求は、こうして数学の新しい分野である集合論を生み出すことになりました。
無限を定義に使うという発想の転換
ガリレオが困り、カントールが受け入れた違いは、「部分が全体と同じ大きさになる」という現象をどう扱うかにありました。
有限では絶対に起こらないこと
10個のリンゴから3個取り出せば、残りは必ず7個です。有限の集まりでは、真部分集合が全体と同じ個数になることは絶対にありません。
ところが自然数と平方数は、一方が他方の一部でありながら同じ個数になります。
| 集合 | もう一方との関係 | 大きさ |
|---|---|---|
| 自然数 と 平方数 | 平方数は自然数の一部 | 等しい |
| 自然数 と 偶数 | 偶数は自然数の一部 | 等しい |
| 自然数 と 整数 | 自然数は整数の一部 | 等しい |
| 自然数 と 有理数 | 自然数は有理数の一部 | 等しい |
| 自然数 と 実数 | 自然数は実数の一部 | 実数の方が真に大きい |
ここでデデキントが行った発想の転換が見事でした。「この性質こそが無限の定義である」としてしまいました。
自分自身の一部と一対一に対応づけられる集合を、無限集合と呼ぶ。パラドックスだったものが、そのまま定義になりました。
困った現象を定義に格上げする
この手口は数学ではよく使われます。
・負の数:引けないはずの引き算の答えとして定義した ・虚数:2乗して負になる数はないはずだが、あることにして定義した ・無限集合:部分が全体と等しくなるという異常を、そのまま定義にした
いずれも「起こってはいけないこと」を排除するのではなく、「それが起こるものを新しい対象として認める」という向きの解決です。
ガリレオは慎重に判断を保留しました。カントールとデデキントは、そこに新しい数学があると考えて踏み込みました。同じ観察から、立ち止まるか進むかで結果が分かれた例になっています。
ガリレオはなぜ踏みとどまったのか
同じ観察をしながら、ガリレオは結論を保留し、カントールは新しい理論を作りました。この差はどこから来たのでしょうか。
ガリレオが『新科学対話』でこの問題を扱ったのは1638年、亡くなる4年前のことです。彼が出した結論は、「等しい、より大きい、より小さいという関係は、無限の量には適用できない」というものでした。
なので、比較そのものを諦めたことになります。無限は数えられないのだから、大小を語ってはいけないという立場になります。
この判断は当時としてはむしろ慎重で妥当なものでした。一対一対応で大きさを測るという発想がまだ存在せず、測る道具がなかったからです。
カントールが行ったのは、まさにその道具を作ることでした。「一対一に対応づけられるものは同じ大きさとする」という定義を先に置き、そのうえで比較を再開しました。
ガリレオには比較を諦める理由があり、カントールには比較を続ける道具があった。250年の差は、道具の有無だったことになります。
数学的無限の関連パラドックス
ガリレオのパラドックスと同じく無限集合の直感に反する性質を扱う関連パラドックスです。
まとめ
本記事は「ガリレオのパラドックス」について解説しました。如何だったでしょうか。
400年前のガリレオを困惑させたこの問題は、有限の世界で培った常識が無限には通用しないことを教えてくれます。ガリレオは慎重に無限を避けましたが、カンターが正面から向き合ったことで、数学は新たな地平を切り開きました。
部分が全体と同じ大きさになるという事実は、一度理解しても何度考えても不思議に感じるものだと思います。
パラドックスの一覧に戻りたい方は以下のリンクからどうぞ。
それでは次の記事も閲覧いただけると幸いです。
こちらもよく読まれています
📚 シリーズ:世界のパラドックス(75/81)







