パラドックス

【世界のパラドックス】全能のパラドックス ─ 神は自分が持ち上げられない石を作れるか?

【世界のパラドックス】全能のパラドックス ─ 神は自分が持ち上げられない石を作れるか?

当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「全能のパラドックス」について解説します。

「全知全能の神は、自分が持ち上げられないほど重い石を作ることができるか?」という、一見シンプルな質問が、2000年以上にわたって神学者や哲学者を悩ませてきました。答えがイエスでもノーでも矛盾が生じるという、非常に厄介なパラドックスです。

図解

全能のパラドックスの中身

問いの構造を整理してみましょう。

全能の神に対して「自分が持ち上げられない石を作れるか?」と尋ねます。

ケース1:作れる場合 神は確かにその石を作ることができる。しかし、その石は神にも持ち上げられない。つまり、持ち上げられないものが存在する時点で神は全能ではないことになります。

ケース2:作れない場合 神にはそのような石を作る能力がない。つまり、作れないものがある時点で神は全能ではないことになります。

どちらに転んでも「全能」という概念が自己矛盾を起こしてしまう。全能のパラドックスの核心だと言えるのではないでしょうか。

このパラドックスの歴史

全能のパラドックスの原型は古くから存在しており、12世紀のイスラム哲学者イブン・ルシュド(アヴェロエス)や、中世キリスト教のトマス・アクィナスらがこの問題に取り組んでいます。

ただ、パラドックスの根本にある「全能とは何か」という問いは、それよりさらに古く、古代ギリシアの哲学にまで遡ります。エピクロスが悪の問題と絡めて神の全能性に疑問を投げかけたのは、紀元前3世紀のことでした。

キリスト教神学においては、この問題は極めて重要になります。なぜなら、アブラハムの宗教における唯一神は文字通りの全知全能とされているからです。もしこのパラドックスが解けないのであれば、神の全能性そのものが論理的に成り立たないことになりかねません。

神学者たちの反論

このパラドックスに対して、神学者たちはいくつかの反論を試みてきました。

トマス・アクィナスの立場は「全能とは、論理的に可能な全てのことができることだ」というものです。「自分が持ち上げられない石」という概念は、全能の存在にとっては論理的に矛盾した概念であり、そもそも意味を成さない問いだと主張しました。

つまり、「丸い四角を作れるか」と聞いているようなもので、それは全能かどうかの問題ではなく、問い自体が無意味だということです。全能とは「論理的に不可能なことまで可能にすること」ではなく、「論理的に可能な全てのことを可能にすること」だと解釈するということですね。

一方で、デカルトはこの問題に対してより大胆な立場を取りました。デカルトは「神は論理法則すら超越できる」と主張しました。つまり、神であれば矛盾したことも実現可能だということになりますが、この主張は別の哲学的問題を生むことになります。

「全能」の定義問題

このパラドックスが教えてくれるのは、「全能」という言葉の定義がそもそも曖昧だということです。

日常会話では「何でもできる」という意味で使いますが、厳密に考え始めるとすぐに問題が出てきます。「過去を変えられるか」「自分を消滅させられるか」「論理法則を破れるか」、こういった問いに対する答え次第で、全能の意味は大きく変わってしまいます。

現代の分析哲学では、全能をいくつかのレベルに分けて議論することが一般的です。

  • 絶対的全能:論理的に矛盾することも含めて全てが可能
  • 論理的全能:論理的に可能な全てのことが可能
  • 物理的全能:物理法則の範囲内で全てのことが可能

どの定義を採用するかによって、パラドックスが成立するかどうかが変わります。このこと自体が「全能」という概念の奥深さを物語っていると言えるでしょう。

類似のパラドックス

全能のパラドックスには多くのバリエーションがあります。「全知全能の神は、明日の天気を変えることができるか?」という問いでは、変えられるなら予知は間違いだったことになり全知でない。変えられないなら全能でない。「神は自分の存在を消せるか?」という問いでは、消せるなら全能の存在がいなくなる。消せないなら全能でない。

これらは全て、全能性を自分自身に向けたときに生じる自己言及的矛盾です。嘘つきのパラドックスやラッセルのパラドックスと同じく、自己言及が矛盾を生む構造を共有しています。

全能をどう定義するかで答えが変わる

このパラドックスへの応答は、結局のところ全能という言葉をどう定めるかに帰着します。主な立場を並べます。

4つの定義と、それぞれの帰結

立場全能の定義石は作れるか抱える問題
論理的制約説論理的に可能なことは何でもできる作れない(矛盾する対象だから)全能の意味が狭まる
普遍的可能説論理法則すら超越できる作れるし持ち上げもできる議論そのものが成立しなくなる
一時的自己制限説自ら能力を制限することもできる作れる(そのとき全能を手放す)全能が永続的でなくなる
述語否定説持ち上げられない石は対象として存在しない問い自体が無意味問題を回避しただけとも言える

1行目の論理的制約説を採ったのが、13世紀の神学者トマス・アクィナスです。彼は「神は矛盾したことをなしえない。それは神の力の限界ではなく、矛盾が実行可能なことの側に入らないだけだ」という趣旨を述べています。

四角い円を作れないのは能力不足ではなく、四角い円というものが存在しないからという整理です。この立場は現在も主流になっています。

2行目の普遍的可能説を採ったのがルネ・デカルトでした。彼は神が論理法則すら自由に定めたと考え、矛盾を実現することも可能だとしました。

ただしこの立場を採ると、議論そのものが成り立たなくなります。矛盾が許されるなら、あらゆる主張が同時に真かつ偽になりうるからです。

全能以外にも同じ問題は起きる

この構造は、神学に限った話ではありません。あらゆる制約を受けない存在を想定すると、必ず似た問題が出てきます。

絶対的な主権:主権者は自らを縛る法を作れるか。作れるなら以後は絶対でなくなる ・憲法改正:改正手続きそのものを改正できるか。できるなら不変の条項が成立しない ・万能のプログラム:あらゆる問題を解くプログラムは、自分が停止するかを判定できるか ・自己修正する人工知能:目標を書き換える能力を持つ主体は、目標を保持できるか

いずれも、その能力を自分自身に向けたとき何が起きるかという同じ問いに行き着きます。

全能のパラドックスが千年以上議論されてきたのは、神学の問題であると同時に、自己に適用される権限をどう扱うかという一般的な難問だったからだと思います。

この問いはいつ生まれたのか

石のパラドックスとして知られる形が文献に現れるのは、12世紀ごろとされています。

もっとも、根にある問題意識はもっと古くからありました。中世のスコラ哲学では、神の属性をどこまで論理的に整合させられるかが盛んに議論されています。

アウグスティヌス(4〜5世紀):神は悪をなしえないが、それは無力ではなく完全性の表れだとした ・アンセルムス(11世紀):嘘をつけないことは能力ではなく無能の一種だと整理した ・トマス・アクィナス(13世紀):矛盾したことは行為の対象にならないと定式化した ・オッカムのウィリアム(14世紀):神の権能を絶対的なものと秩序づけられたものに区別した

いずれも「できないことがある」を認めたうえで、それが欠陥ではないと説明する方向で答えています。

近代以降は、神学の枠を離れて論理学の問題として扱われるようになりました。20世紀の分析哲学では、全能をどう形式化すれば矛盾なく定義できるかという技術的な議論が積み重ねられているように思います。

千年近くかけて、「神は何でもできるのか」という問いが「何でもできるとはどういう意味か」へ移り変わってきた形です。問いそのものの立て方が変わっていく過程が見えるのは、なかなか興味深いところだと思います。

千年かけて問いの立て方そのものが変わっていったという経緯は、私には神学の中身以上に興味深いところでした。

自己言及の関連パラドックス

全能のパラドックスと同じく自己言及が生む論理的矛盾を扱う関連パラドックスです。

まとめ

本記事は「全能のパラドックス」について解説しました。如何だったでしょうか。

一見すると子供っぽい質問のように思えますが、この問いは神の全能性、論理の限界、そして言葉の定義という哲学の根幹に関わるテーマを含んでいます。2000年経っても決着がついていないのも頷ける深さです。

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