当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「永劫回帰」について解説します。
ある夜、もっとも孤独な時間に、一匹の悪魔があなたのもとに忍び込んで、こう告げます。
お前が今生きており、これまで生きてきたこの人生を、もう一度、そして無数回にわたって生きねばならない。そこには新しいものは何もない。あらゆる苦痛と、あらゆる喜びと、あらゆる思いとため息が、同じ順序で戻ってくる。
このとき、あなたはどう答えるでしょうか。
歯ぎしりして、そう告げた悪魔を呪うでしょうか。それとも、これほど神々しい言葉を聞いたことがないと答えるでしょうか。
フリードリヒ・ニーチェがこの問いを置いたのは、宇宙の構造を説明するためではありませんでした。今の生き方を測るための重しとして用意したものです。
「最大の重し」と題された断章
この問いが初めて書かれたのは、1882年に出版された『悦ばしき知識』の中です。その節には「最大の重し」という題が付けられています(第341節にあたります)。
重しという言葉が選ばれているところが重要です。軽やかな慰めではなく、のしかかってくる重さとして提示されているわけです。
そして節の最後で、ニーチェはこう問いかけます。この考えがあなたを支配したなら、「もう一度これを望むか」という問いが、あらゆる行為にのしかかることになるだろう、と。
やり直しはききません。次も同じことが起きます。取り消しも、埋め合わせも、続きもありません。この条件のもとで、今の一日を肯定できるかどうかが問われます。
二つの読み方
永劫回帰には、大きく分けて二つの読み方があります。
宇宙の構造についての主張として。時間が無限に続き、物質の取りうる状態が有限なら、同じ配置がいつか必ず繰り返される。ニーチェは、公刊しなかった草稿の中でこの筋の論証を試みています。
ただし、この主張は物理学的に支持されていません。宇宙が有限で閉じた系であるという前提も、状態が有限であるという前提も、現在の理解とは合いません。そしてニーチェ自身、出版した著作ではこの論証を前面に出していません。
生き方を測る試金石として。こちらが現在の主流の読み方です。本当に繰り返されるかどうかは問題ではありません。「繰り返されるとしたら」と自問したときに、自分がどう答えるかを見るための装置として使います。
この読み方なら、宇宙論の是非とは無関係に議論が成立します。
何を測っているのか
では、この問いは具体的に何を測っているのでしょうか。
一つは、今の生き方への態度です。いつか報われるから今は我慢する、という構えは、この設定では通用しません。報われる日も含めて、同じ順序で永遠に繰り返されるだけだからです。将来の埋め合わせを当てにした肯定は、ここで使えなくなります。
もう一つは、過去への態度です。永劫回帰を受け入れるとは、これまでの失敗も屈辱も、そっくり同じ形で肯定することを意味します。
ニーチェは、過去に対する恨みを人間を弱らせるものとして重く見ました。「そうであった」という変えられない事実に対して、意志は無力です。この無力さが、恨みや復讐心の温床になると彼は考えました。
そこから出てくるのが「運命愛」(amor fati)という言葉です。必然的なものを、耐えるのでも隠すのでもなく、美しいと見ることを学びたい。この態度に達したかどうかを確かめる装置が、永劫回帰の問いだ、という読み方になります。
普遍化ではなく反復
倫理の試金石としては、別の有名なものがあります。カントの「その行為の原則が、誰にでも当てはまる規則になってよいか」と問う定式です。
この二つは、測っている方向がまったく違います。
| 試金石 | 何を問うか | 向いている方向 |
|---|---|---|
| 普遍化できるか | 誰がやってもよい規則になるか | 他者へ、横へ |
| 反復に耐えるか | 永遠に繰り返してよい人生か | 自分へ、時間の縦へ |
カントの問いは、行為を他人の立場から見直させます。ニーチェの問いは、人生を時間の全体から見直させます。
そして、ニーチェの問いには規則が出てきません。何をすべきかを教えてくれるわけではないのです。今の自分の状態を映すだけという点で、道徳の原則というより診断の道具に近い性格をしています。
反論
この思想には、いくつも批判が向けられてきました。
記憶がないなら意味がない。完全に同一の繰り返しなら、二周目の自分は前回のことを何も覚えていません。当人にとっては一度きりと区別がつかないので、繰り返されると言われても何も変わらないのではないか、という指摘です。
これに対しては、そもそも本当に繰り返されるかは問題ではなく、今この瞬間にそう問われたときの反応が主題なのだ、という応答が可能です。試金石としての読み方を採るなら、この批判はかわせます。
宇宙論としては誤り。先に触れたとおりです。この点は擁護のしようがありませんが、思想の中心部分には影響しません。
過去の肯定を求めることの残酷さ。これがもっとも重い批判だと思います。深刻な被害を受けた人に対して、それも含めて肯定せよと迫るのは、あまりに酷です。
ニーチェの言葉は、しばしば強さの称揚として読まれてきました。そして、その読み方が、苦しんでいる人を追い詰める道具として使われた例も少なくありません。この問いは、自分に対して立てるものであって、他人に向けて突きつけるものではないと私は考えています。
文学への広がり
この思想は、哲学の外側にも大きく広がりました(小説にも映画にも、繰り返しを主題にした作品は数え切れません)。
とりわけ知られているのが、ある小説の冒頭です(東欧出身の作家による、1984年の長編です)。作者は永劫回帰の話から書き起こし、一度きりしか起きないことは、まるで起きなかったのと同じだという趣旨のことを述べます。
繰り返されないからこそ、人生は取り返しがつかず、同時にどこか実感を欠いた軽いものになる。永劫回帰が重しなら、一度きりの人生は耐えがたいほど軽い。ニーチェの問いを裏返して受け取ったこの読み方は、それ自体が独立した思索として広く読まれています。
永劫回帰について気になること
今の生き方に「いいえ」と答えたら、どうすればよいのですか
ニーチェは、答えを用意していません。この問いは診断であって、処方箋ではないからです。
ただ、答えが出た時点で得られるものはあります。繰り返したくない部分がどこかは、はっきりするからです。人生全体を漠然と評価するより、繰り返しに耐えない箇所を特定するほうが、実際には扱いやすいと思います。
楽な人生であれば「はい」と答えられるのですか
そう単純ではありません。ニーチェが想定していたのは、苦痛や困難を含んだうえで肯定するという態度です。苦しみを避け続けた人生が、反復に耐えるとは限りません。
彼が問題にしたのは、快の量ではなく、自分の人生を自分のものとして引き受けているかという点でした。他人の期待に沿って生きた楽な人生は、繰り返せと言われると重く感じられるかもしれません。
仏教の輪廻と同じですか
似ているようで、方向が逆です。輪廻の思想では、繰り返しは断ち切るべきものとされます。解脱とは、その循環から抜け出すことです。
一方ニーチェは、繰り返しを受け入れるべきもの、望むべきものとして提示しました。同じ円環の絵を使いながら、そこからの脱出を求めるか、そこへの肯定を求めるかが、正反対になっています。
関連する思考実験
人生をどう評価するか、幸福とは何かを扱った記事です。永劫回帰と並べると、測り方の違いがはっきりします。
まとめ
本記事は「永劫回帰」について解説しました。如何だったでしょうか。
この人生を、寸分違わず、無数回。やり直しも埋め合わせもない条件で、今の生き方を肯定できるかという問いは、道徳の規則を教えてくれるわけではありません。ただ、自分が今どこに立っているかを、容赦なく映し出します。
宇宙論としては誤りですし、他人に突きつければ残酷にもなります。それでも、自分に向けて静かに立てる問いとしては、これ以上ないほどよくできていると思います。ニーチェがこれを「最大の重し」と呼んだのは、支えてくれるものではなく、のしかかってくるものだと分かっていたからなのでしょう。
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