当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「納屋のファサード」について解説します。
ヘンリーが田舎道を車で走っています。窓の外に納屋が見えたので、彼は「あそこに納屋がある」と思います(フェイクバーンの名でも知られる例です)。
視力は正常で、天気もよく、距離も近い。そして実際に、それは本物の納屋です。
ところが、彼が知らないことが一つあります。この地域には、映画の書き割りのような、正面だけの張りぼての納屋が大量に建てられているのです。道路から見る限り、本物と見分けはつきません(なぜそんなものが建っているのかは、この例では問われません)。ヘンリーが見たのは、その中にぽつんと混じっていた本物でした。
さて、ヘンリーは「あそこに納屋がある」ということを知っていたのでしょうか。
三条件は満たされている
まず、知識の伝統的な定義に照らして確認します。知識とは正当化された真なる信念である、という定義です。
| 条件 | ヘンリーの場合 |
|---|---|
| 信念 | 彼は「納屋がある」と信じている |
| 真 | それは実際に本物の納屋である |
| 正当化 | 明るい場所で、正常な視覚で、はっきり見えている |
三つとも、文句なく満たされています。それでも、ヘンリーが知っていたと言う人はほとんどいません。
理由ははっきりしています。彼がもう少し先の納屋を見ていたら、まったく同じ確信をもって間違えていたからです。当たったのは偶然にすぎません。
ゲティア問題の続編として
この例が有名になったのは、単独の面白さのためではありません。ゲティア問題に対する有力な修復案を、正面から破ったからです。
ゲティアが示した反例では、主人公は「ジョーンズが採用される」のような偽の命題を踏み台にして推論していました。そこで哲学者たちは、次のような第四の条件を提案します。
推論の途中に、偽の命題を経由していないこと。(no false lemmas と呼ばれる条件です)
この条件は、ゲティアの二つの例をきれいに排除します。しばらくは有望な修復案と考えられていました。
ところが、納屋のファサードではこの条件が効きません。ヘンリーは推論を一切していないからです。彼はただ見て、そのまま信じただけです。踏み台にした偽の命題は、どこにもありません。
それでも知識ではない。推論の中身をいくら整えても、認識的な運は排除できなかったということになります。
何が足りないのか
では、ヘンリーには何が欠けていたのでしょうか。いくつかの答えが提案されてきました。
感受性が足りない。「もしそれが納屋でなかったとしたら、彼は納屋だと信じなかっただろうか」と問うてみます。答えは否です。張りぼてを見ても、彼は同じように信じたはずです。世界が違っていても信念が変わらないなら、その信念は世界を追跡していません。
安全でない。別の言い方もあります。「彼は容易に誤りえたか」という問いです。少し首を動かしていれば、あるいは数百メートル進んでいれば、彼は誤っていました。正しさが薄い偶然に支えられている状態は、知識と呼ぶには不安定すぎる、という考え方になります。
代替を排除できていない。この例を提示した哲学者自身の分析はこれです(考案したのは別の哲学者だとされています)。知覚による知識が成立するには、その場面で本当にありえた別の可能性を、見分けて排除できていなければならない。ヘンリーには、本物と張りぼてを見分ける手段がありませんでした。
どの説明も、共通して「たまたま当たった」という構造を指しています。表現の仕方が違うだけとも言えます。
範囲をどこまで広げるか
この例には、厄介な続きがあります。張りぼてが何個あれば、知識でなくなるのかという問題です。
地域一帯が張りぼてだらけなら、知識ではないと言えます。では、張りぼてが一つだけなら。地平線の向こうの隣の郡にだけ大量にあるなら。100年前に取り壊された張りぼての跡地なら。
どこまでを「ありえた可能性」として数えるかを決める原則が、うまく書けません。範囲を広く取れば、私たちはほとんど何も知らないことになります。狭く取れば、明らかに運任せの場合まで知識になってしまいます。
この困りごとから、知識という語の使い方は文脈によって変わるという立場も生まれました。日常の会話では緩い基準で「知っている」と言い、厳密な議論では基準が上がる、という考え方です。
現代の環境に当てはめると
私はこの例が、いまの情報環境を考えるうえでかなり有効だと思っています。
もっともらしいが誤った情報が大量に流通している場所で、たまたま正しい情報にあたったとしましょう。内容は正しく、根拠らしきものも付いています。しかし、それを見分ける手段を持っていなかったなら、状況はヘンリーとまったく同じです。
このとき私たちは、知っているのではなく、当たっているだけです。そして本人には、その区別が付きません。当たった側から見れば、どちらも同じように見えるからです。
だからこの例の実用的な教訓は、次のようになります。正しかったかどうかではなく、間違っていたら気づけたかどうかを問う。この問いは自分に対して立てられますし、答えられなければ、自分の判断の位置が分かります。
納屋のファサードについての疑問
ヘンリーが張りぼての存在を知っていたら、どうなりますか
事情はまったく変わります。張りぼてがあると知っていれば、彼は用心して、近づいて確かめようとするはずです。確かめたうえで納屋だと判断したなら、それは知識になります。
つまり、この例で決定的なのは彼が置かれている環境と、彼が持っている情報がずれていることです。環境の危うさを本人が知らないまま、たまたま無事だった、という構造になっています。
なぜ「知識ではない」と感じるのですか
多くの人が共有するこの直感は、知識には安定性が求められていることの表れだと考えられています。
一度だけ当たった判断と、繰り返しても当たる判断は違います。知識という言葉に、私たちは「次も当たる」という含みを込めている。だから、たまたま当たっただけの場合には使いたくなくなるわけです。
ゲティア問題は結局どうなったのですか
決着していません。この例が示したのは、推論の形を整えるだけでは足りないということでした。その後、感受性や安全性といった条件が提案されましたが、それぞれに反例が作られています。
現在では、知識の必要十分条件を書き下すこと自体が無理なのではないかという方向の議論も有力です。納屋のファサードは、その行き詰まりを決定づけた一つの転換点として位置づけられています。
関連する思考実験
知識と、たまたま当たることの違いを扱った記事です。納屋のファサードと並べると、認識的な運がどこに入り込むのかが見えてきます。
まとめ
本記事は「納屋のファサード」について解説しました。如何だったでしょうか。
本物を見て、正しく判断して、実際に当たっている。それでも知識ではない。周りに何が建っていたかという、本人がまったく関与していない事情が、判定を変えてしまう。この構造が、この例のいちばん不思議なところだと思います。
そして、この居心地の悪さは他人事ではありません。私たちが日々受け取っている情報の中で、自分が張りぼての並ぶ道を走っていないと、どうやって確かめるのか。当たったかどうかではなく、外れていたら気づけたかどうか。そこを問う癖が、この思考実験から持ち帰れる一番の道具だと思います。
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