当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「旅人のジレンマ」について解説します。
2人の旅人が、航空会社に壊された土産の賠償額をそれぞれ別々に申告します。理詰めで考えていくと申告額はどんどん下がり、最終的に許される最低額まで落ちてしまいます。ところが実際に人を集めて実験すると、ほとんどの人は最高額に近い数字を書き、理論が勧める額よりはるかに多くのお金を持ち帰ります。合理性という概念そのものに疑いを向けさせる問題です。
航空会社が出した奇妙な条件
まず設定を確認します。
2人の旅人が同じ骨董品を買って帰る途中、航空会社が荷物を壊してしまいました。まったく同じ品なので、本来の価値も同じはずです。
支配人は2人を別々の部屋に通し、こう告げます。
品物の価値を2ドルから100ドルの範囲で申告してください。相談は禁止です。 2人の額が同じなら、2人ともその額を受け取れます。 額が違った場合は、低い方の額を基準にします。低く申告した人には2ドルの上乗せ、高く申告した人からは2ドルを差し引きます。
正直に高い額を書けば得をしそうですが、相手より高いと減額されるという仕掛けが入っています。
少しずつ下げたくなる仕組み
ここで自分の立場になって考えてみます。
「100ドルと書こう」と思ったとします。もし相手も100ドルなら、2人とも100ドルです。
ところが、相手が100ドルを書くと予想できるなら、自分は99ドルと書いた方が得になります。低く申告した側なので、99ドルに2ドル上乗せされて101ドルが手に入るからです。100ドルより1ドル多い。
とすれば、相手も同じことを考えるはずです。相手が99ドルを書くと読めるなら、自分は98ドルにすればいい。98ドルに2ドル足して100ドルとなり、99ドルより得をします。
この読み合いは止まりません。97、96、95と下がり続け、最終的に下限の2ドルまで落ちてしまいます。
2ドルまで来ると、もう下げる余地がありません。相手が2ドルなら自分も2ドルにするしかなく、ここから動く理由が消えます。つまり2人とも2ドルを申告する状態が、この問題における唯一のナッシュ均衡になります。
実際の人は100ドルに近い額を書く
理論の答えは2ドルですが、この問題を実際に人に出してみると、結果はまったく違います。
多くの実験で、参加者の大半は95ドルから100ドルの範囲を申告します。2ドルを書く人はごく少数です。
そして重要なのは、その人たちが受け取る金額です。ほとんどの人が高い額を書くので、みんな100ドル近くを手にします。理論どおりに2ドルと書いた少数派は、2ドルしかもらえません。
「合理的に振る舞った人が最も貧しくなる」という奇妙な結果です。囚人のジレンマでは、合理的な行動が全員にとって悪い結果を招くところまでは同じですが、旅人のジレンマはさらに極端で、理論が勧める額と実際に得られる額の差が50倍近くにもなります。
提唱したのは世界銀行の主席エコノミスト
この問題を1994年に提示したのは、インドの経済学者カウシック・バスーです。彼はのちに世界銀行の主席エコノミストを務めた人物でもあります。
バスーの狙いは、単なる面白いパズルを作ることではありませんでした。ゲーム理論が前提としてきた合理性の定義が、本当に妥当なのかを問い直すことにありました。
後退帰納法という推論の手続きそのものは、どこにも誤りがありません。一段ずつの推論はすべて正しい。それなのに、結論として出てくる行動は現実の人間より明らかに劣った結果しかもたらしません。
推論が正しくて結論が悪いなら、疑うべきは出発点にある前提の方だ、というのがバスーの主張です。
相手も合理的だと信じきれるか
なぜ人は2ドルまで下げないのか。有力な説明のひとつが、相手への信頼と読みの深さです。
2ドルという結論にたどり着くには、「相手も完全に合理的で、しかも自分が完全に合理的であることを相手も知っている」という条件が何段も積み重なる必要があります。
現実には、何十段も読み合いを重ねる人はいません。多くの人は1段か2段先までしか読みませんし、相手も高い額を書くだろうと期待して、自分も高い額を書きます。
面白いのは、上乗せと差し引きの金額を変えると結果が変わることです。2ドルではなく20ドルのような大きな額にすると、申告額は理論値に近い低い水準へ寄っていきます。抜け駆けの旨みが大きいほど、人は理詰めの側に近づくのだと思います。
要するに、人は完全に非合理なのではなく、抜け駆けの利益が小さいうちは信頼を優先し、大きくなると計算を優先する。そういう使い分けをしていることになります。
上乗せ額を変えると行動が動く
この問題が単なる「人間は非合理」で終わらないのは、条件を変えると行動が系統的に変わるからです。
抜け駆けの旨みと申告額の関係
1999年にカプラらが行った実験では、上乗せと差し引きの金額だけを変えて申告額の変化を測りました。
| 上乗せ・差引額 | 抜け駆けの旨み | 平均申告額の傾向 |
|---|---|---|
| 小さい(数ドル) | ほとんどない | 上限近くに高止まりする |
| 中程度 | それなりにある | 中間まで下がる |
| 大きい(上限の4割程度) | 非常に大きい | 理論値の付近まで落ちる |
理論上は上乗せ額がいくつであっても均衡は最低額のままで、変わるはずがありません。ところが実際の行動はなめらかに動きます。
つまり人は、後退帰納法を最後まで回すかどうかを機械的に決めているのではなく、裏切って得られる額と、信頼して得られる額を秤にかけていることになります。
同じ形をした他のゲーム
一段ずつの推論が積み重なって不合理な結論に着地する構造は、他にもあります。
・むかでゲーム:交互に受け取るか続けるかを選び、続けるほど総額が増える。後退帰納法では最初の手番で即座に降りるのが均衡になるが、実際の人はしばらく続ける ・美人投票:全員の平均値の3分の2に最も近い数を当てる。読み合いを重ねると0に収束するが、実際の回答は20から30あたりに集まる
どちらも「相手が何段まで読むか」が結果を決めます。全員が深く読むほど全員の取り分が減るという点で、旅人のジレンマと同じ性質を持っています。
合理性という言葉の使い方
私はこの問題が、実務にもそのまま効いてくる話だと感じています。
交渉や取引の場面で「相手も自分と同じくらい賢いはずだ」と仮定して手を読み進めると、しばしば誰も望まない結論に着地します。値下げ競争や過剰な条件提示が典型でしょうか。
そこで踏みとどまれるかどうかは、相手を信頼できるかにかかっています。全員が少し素朴でいる方が、全員が賢く振る舞うより豊かになれる場面があるというのは、なかなか味わい深い結論だと思います。
現実の交渉で同じ坂を下る場面
抽象的な設定に見えますが、この構造は実務でよく現れます。共通しているのは、「相手より少しだけ有利にしよう」という一手が積み重なる場面です。
・価格競争:他社より少し安くすれば取れる。全社が同じことをして利益率だけが削れる ・入札の値下げ:僅差で勝てばよいと考えて下げ続け、落札しても採算が合わない ・納期の前倒し:競合より1日早い提案を出し合い、実現不可能な水準に着地する ・広告の投入量:相手より露出を増やす応酬で、双方の費用だけが膨らむ
どの場合も、一手ごとの判断には誤りがありません。個々の意思決定が正しいまま、全体が誰も望まない場所へ向かいます。
止める方法は2つあります。ひとつは全員が読みを浅くすること、つまり相手も無茶はしないだろうと信頼すること。もうひとつは、下限そのものを外から決めてしまうことです。
最低賃金や不当廉売の規制、入札の下限価格制度は、後者にあたります。坂を下れないように壁を置くという発想で、旅人のジレンマの構造を知っていると、これらの制度の狙いがよく分かるようになると思います。
社会的ジレンマの関連パラドックス
一人ひとりが合理的に振る舞った結果、全員が損をしてしまう関連パラドックスです。
まとめ
本記事は「旅人のジレンマ」について解説しました。如何だったでしょうか。
一歩ずつの推論はすべて正しいのに、たどり着いた先では理論に従わなかった人の方が50倍近く多く受け取ります。ここまで露骨に差が開くと、間違っているのは人間ではなく理論の側ではないかと考えたくなります。
正しい手続きを踏めば良い結果になるとは限らない。そのことを、これ以上ないほど分かりやすい形で見せてくれる問題だと思っています。
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