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【有名な思考実験】殺人犯が扉を叩く ─ 友人を守るための嘘も、許されないのか

【有名な思考実験】殺人犯が扉を叩く ─ 友人を守るための嘘も、許されないのか

当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「殺人犯が扉を叩く」について解説します。

友人が血相を変えて駆け込んできて、あなたの家に隠れました。しばらくして扉が叩かれます。開けると、明らかに殺意を持った人物が立っていて、こう尋ねます。

「あいつはここにいるか」

どう答えるでしょうか。ほとんどの人は、迷わず嘘をつくと思います。

ところがイマヌエル・カントは、1797年に発表した短い論文で、この場合でも嘘をついてはならないと論じました。倫理学の歴史でもっとも評判の悪い主張の一つですが、なぜ彼がそこまで言い切ったのかを追うと、規則というものの性質が見えてきます。

図解

批判として持ち出された例

この設定は、もともとカントを批判するために作られたものです。

フランスの思想家バンジャマン・コンスタンが、当時の道徳論を検討する文章の中でこの例を挙げました(コンスタンは相手を名指ししていませんが、カントは自分のことだと受け取りました)。彼の指摘はこうです。

「真実を語ることは義務である」という原則を無条件に適用すると、この場面で正直に答えなければならなくなる。しかしそれは明らかにおかしい。だから義務には条件が必要で、真実を受け取る権利のある相手にだけ真実を語る義務があると考えるべきだ、というものです。

常識的で、穏当な提案に見えます。実際、多くの人はこの線で納得します。

ところがカントは、この修正を拒みました。しかも、わざわざ短い論文を書いて反論しています。

カントの答え

彼の主張は、身も蓋もないほど単純です(論文の題は「人間愛からの嘘といわれるものについて」)。嘘は、いかなる場合にも不正である。真実を語る義務は無条件であり、例外は認められない。

理由として、彼は二つのことを述べています。

第一に、嘘は言葉そのものを壊す。嘘をつくとき、私は目の前の相手を欺いているだけではありません。言明というものが信じるに足るという、社会の土台そのものを損なっているのです。契約も、証言も、約束も、言葉が信じられることを前提に成り立っています。個別の相手への害を超えて、人間の共同生活全体に対する加害になる、という論法です。

第二に、結果は予見できない。ここが、意外に現実的な論点になっています。

嘘をついて「彼はいない」と答えたとしましょう。ところが、あなたの知らないあいだに友人が裏口から逃げ出していたらどうなるか。訪問者はあなたの言葉を信じて外を探し、そこで友人と出くわすかもしれません。

正直に答えて悪い結果が生じた場合、あなたは責任を問われません。それは偶然の産物だからです。ところが嘘をついた場合、そこから生じたすべての結果はあなたの行為に帰せられます。カントは、この責任の所在の違いを重く見ました。

ほとんど誰も同意しなかった

この結論は、発表当時から現在に至るまで、圧倒的に不評です。反論の主なものを挙げます。

直感に反しすぎる。倫理理論は、私たちの道徳的な判断をうまく説明できることが求められます。ほぼ全員が間違いだと考える結論を出す理論は、その時点で疑われます

カント自身の原則と矛盾する。彼は別の場面で、人を単なる手段として扱ってはならないと述べています。ところがこの場面で正直に答えることは、友人の命を自分の道徳的な潔白のために差し出すことになりかねません。誰を手段として扱っているのかを問うと、カントの答えは分が悪くなります。

選択肢を二つに絞りすぎている。真実を語るか嘘をつくか、という二択自体が不自然です。黙る、答えを拒む、扉を閉めるという道があります。カントの論法では、嘘をつかない限り義務は果たされているので、沈黙は許されるはずです。この論文は、その可能性をほとんど検討していません。

相手に権利がない。コンスタンの元の指摘に戻ります。害を加える目的で情報を求める者に、真実を受け取る権利があるのか。約束が強要されたものなら無効であるのと同じで、この場面の問いかけも正当な要求として扱う必要はない、という反論です。

それでも読む価値がある理由

これだけ批判されている議論を、なぜ今も読むのでしょうか。

私は、規則に例外を認めるとはどういうことかを、極限まで詰めて見せているからだと考えています。

例外を一つ認めると、次の問いが来ます。どういう場合が例外なのか。命が懸かっている場合でしょうか。では、大怪我なら。財産なら。面目なら。線を引く基準を用意しないまま例外を認めれば、規則は都合のいいときに曲げられるものに変わります

カントが恐れていたのは、まさにそこだったと考えられます。嘘が例外的に許される場面を認めた瞬間、その判断は各人の裁量に委ねられます。そして人は、自分に都合のよい方向へ裁量を働かせます。

この心配は的外れではありません。実際、「これは特別な場合だから」という言い方が、あらゆる規則破りに使われてきました。ただし、だからといって例外をまったく認めないという解決が正しいことにはなりません。

現代のカント研究がどう扱っているか

現在の研究では、この小論をカント倫理学の必然的な帰結とは見ない読み方が有力になっています。

一つの方向は、状況を区別するというものです。すべての人が道徳法則に従っている理想的な状態と、不正が現に行われている状態を分け、後者では扱いが変わりうると考えます。殺人者はすでに道徳的な関係の外に出ているのだから、通常の義務がそのまま適用されるとは限らない、という筋です。

もう一つは、この論文をカントが晩年に極端へ振れた例として位置づけ、彼の主著の議論とは切り離して読む方向です。

いずれにせよ、義務論を採ることと、この結論を受け入れることは同じではないというのが、現在の一般的な理解になっています。

この問題について気になること

実際に、こういう場面はあったのですか

歴史上、繰り返しありました。迫害された人々をかくまい、当局に嘘をついて守った人々の記録は数多く残っています。

そうした人々を、私たちは称賛します。彼らが嘘をついたことを非難する人はまずいません。この事実そのものが、カントの結論に対する強い反証として扱われてきました。

黙っていれば解決するのですか

理屈の上ではそうですが、実際の場面では機能しないことが多いと思います。沈黙は、しばしば肯定として受け取られます。答えないという態度自体が、そこに何かがあると伝えてしまう場面があります。

とはいえ、この選択肢が存在すること自体は重要です。真実か嘘かという二択で議論を始めると、そこにない選択肢が見えなくなります。倫理の問題を扱うとき、設定された選択肢を疑うのは有効な手だと思います。

結局、どう考えればよいのですか

私は、この問題の使いどころは「例外を認めるなら、その条件を先に書いておく」という教訓にあると考えています。

その場で判断すれば、必ず都合のよいほうへ寄ります。だからカントは例外を認めませんでした。しかし、条件をあらかじめ明示できるなら、恣意的にはなりません。例外を禁じるか、例外の条件を書くか。この二つのどちらかを選ぶ必要がある、というのがこの議論の残したものだと思います。

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まとめ

本記事は「殺人犯が扉を叩く」について解説しました。如何だったでしょうか。

友人の命が懸かっていても嘘をついてはならない。ほぼ全員が反対する結論を、カントは正面から書いてしまいました。そして、その理由が「言葉が信じられるという土台を守るため」だったところに、彼の一貫性が現れています。

結論には同意できなくても、例外を認めた途端に、その線引きを誰がどう決めるのかという問題が始まるという指摘は残ります。規則を作る側に回ったとき、この心配は他人事ではなくなると思います。

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