当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「ブラックホール情報パラドックス」について解説します。
ブラックホールは何でも吸い込む穴だと思われがちですが、ホーキングの計算によればじわじわ放射を出しながら蒸発し、いずれ消えてなくなります。問題はそのあとです。出てきた放射には、落ちていった物が何だったのかという情報がまったく含まれていません。ところが量子力学は、情報が消えることを許しません。半世紀にわたって物理学者を悩ませ続けている衝突です。
ブラックホールは蒸発する
出発点は1974年、スティーヴン・ホーキングの計算です。
古典的な一般相対性理論では、ブラックホールから外へ出られるものは何もありませんが、地平面のすぐ近くで量子力学の効果を考えると、話が変わります。
真空はまったくの無ではなく、粒子と反粒子の対が生まれては消えるゆらぎに満ちています。地平面のすぐ外側でこの対が生まれると、片方が中へ落ち、もう片方が外へ逃げ出すことがあります。
外から見ると、これはブラックホールが放射を出しているように見えます。これがホーキング放射になっています。そしてエネルギーを持ち去られたブラックホールは少しずつ軽くなり、非常に長い時間をかけて最後には蒸発してしまいます。
ブラックホールが永遠の墓場ではなく、いつか消えるものだと分かった。ここまでは大発見でした。
出てくる放射に中身の情報がない
問題は、そのホーキング放射の性質にあります。
計算によれば、この放射は完全に熱的です。温度で決まるでたらめな放射であって、ブラックホールの質量・電荷・角運動量という3つの量にしか依存しません。
ブラックホールは外から見るとこの3つの量しか持たない、という性質があり、脱毛定理と呼ばれています。落ちたのが百科事典でも、同じ質量の岩でも、外から見えるブラックホールはまったく区別がつきません。
そして蒸発が終わったあとに残るのは、そのでたらめな放射だけです。落ちていった百科事典の中身は、どこにも痕跡を残していないことになります。
量子力学が許さない理由
情報が消えて何が困るのか、と思われるかもしれません。少し回り道になりますが、この点を先に整理しておきます。
量子力学の時間発展はユニタリと呼ばれる性質を持っています。ざっくり言えば、現在の状態を完全に知っていれば、原理的には過去の状態を復元できるという可逆性です。
紙を燃やして灰にした場合でも、事情は同じです。実際には無理でも、原理的には煙と灰と光の状態をすべて調べ上げれば、元の紙に何が書かれていたかを復元できる。これが物理学の前提でした。
ところがブラックホールの場合、蒸発後に残るのは元の中身と無関係な熱放射だけです。何を調べても元に戻せません。物理学の根本的な前提が破れていることになるのだと思います。
一般相対性理論に従って計算すると情報が消え、量子力学に従うと情報は消えない。両方とも極めてよく検証された理論なのに、この一点で正面からぶつかっているように思います。
ホーキングの賭けと敗北宣言
この対立には、有名なエピソードがあります。
1997年、ホーキングとキップ・ソーンは「情報は失われる」という側に立ち、量子情報の研究者ジョン・プレスキルと賭けをしました。負けた側が勝った側に百科事典を贈るという条件です。
そして2004年、ホーキングは公の場で自らの敗北を認めます。情報はやはり失われないという立場に転向し、プレスキルに野球の百科事典を贈りました。
情報が戻ってくるなら、灰から元の記述を拾えるという意味で、この贈り物はなかなか気の利いた選択だったと思います。
とは言っても、ホーキングが認めたのは「情報は保存されているらしい」という結論であって、「どうやって出てくるのか」は説明できていませんでした。共同で賭けをしていたソーンの方は、このときまだ納得していなかったとされています。
ホログラフィー原理という突破口
流れを変えたのは、まったく別の分野からの結果でした。
1997年にフアン・マルダセナが提出したAdS/CFT対応です。おおまかに言えば、ある種の空間における重力の理論と、その空間の境界に住む重力のない量子論とが、まったく同じ内容を別の言葉で語ったものになっている、という主張です。
重要なのは、境界側の理論が明らかにユニタリで、情報が消えない理論だという点でした。両者が同じ内容なら、重力側でも情報は消えていないことになります。
内部の情報が境界の面に書き込まれているというこの発想は、ホログラフィー原理と呼ばれます。ヘラルト・トホーフトとレナード・サスキンドが1990年代に提唱したもので、ブラックホールの情報も地平面という面の上に記録されていると考えます。
ホーキングが立場を変えた背景には、この一連の進展がありました。
ページ曲線と島の公式
とは言っても、対応関係から間接的に言えるだけでは、多くの物理学者は満足しませんでした。重力の側で直接計算したときにも情報が戻ってくると言えなければ、解決したことにはなりません。
ここで基準になったのが、1993年にドン・ページが指摘したページ曲線です。もし情報が保存されているなら、放射のもつれの度合いは蒸発の途中まで増え続けたあと、ある時点から減少に転じて最後にゼロへ戻るはずだ、という予測でした。ホーキングの元の計算では、この量は増え続けるだけで下がりません。
長らく手が出ませんでしたが、2019年から2020年にかけて状況が動きます。量子極値曲面や島の公式と呼ばれる手法によって、重力の計算からページ曲線が再現されたのではないでしょうか。
これは大きな前進として受け止められましたが、情報がどのような物理過程で外へ運ばれるのかという具体的な描像は、まだ完全には得られていません。2012年に提起されたファイアウォール問題のように、新たな困難も見つかっています。
半世紀かけて「情報は出てくるらしい」まではたどり着いた。けれども「どうやって」はまだ途中。私はこの状態が、物理学の最前線の見本のようで面白いと感じています。
提案されてきた解決案を並べる
半世紀のあいだに、この問題への答えは数多く提出されてきました。主なものを整理します。
主な立場と、それぞれの難点
| 立場 | 主張 | 難点 |
|---|---|---|
| 情報は失われる | ホーキングの当初の結論。量子力学の方を修正する | エネルギー保存が破れるなどの副作用が大きい |
| 放射に符号化されている | 熱的に見える放射に微細な相関として情報が乗る | 相関がどう生まれるのか説明できていない |
| ブラックホール補完性 | 落ちた側と外の観測者、どちらの記述も正しい | 2つの記述を突き合わせると矛盾する場合がある |
| ファイアウォール | 地平面に高エネルギーの壁があり、落ちた物は焼ける | 等価原理と衝突する |
| 残骸が残る | 蒸発しきらず、情報を抱えた微小な塊が残る | 無限に多くの状態を持つ極小の物体が必要になる |
| 別の宇宙へ抜ける | 情報は切り離された時空へ移る | 観測で確かめる手立てがない |
1993年にサスキンドらが提唱したブラックホール補完性は、長く有力視されていました。地平面を落ちていく人にとっては何事も起きず、外から見ると地平面で焼き尽くされる。両方が正しいという主張です。
ところが2012年、ポルチンスキーを含むAMPSの4人が、この描像を突き詰めると地平面に高エネルギーの壁が現れると指摘しました。これがファイアウォール問題です。
なぜ決め手に欠けるのか
どの案にも共通する困難は、重力と量子力学の両方が同時に効く領域を、まだ誰も正しく計算できないことにあります。
地平面の近くは、重力が強く、かつ量子効果も無視できません。この領域を扱うには量子重力理論が必要ですが、それ自体が未完成です。
2019年以降の島の公式が評価されたのは、限られた設定とはいえ重力の側から直接ページ曲線を出せた点にありました。それでも、情報が何に乗って外へ出てくるのかという肝心の描像は、まだ手つかずのまま残っています。
量子力学の関連パラドックス
量子力学の要請と、私たちの素朴な描像とが噛み合わなくなる関連パラドックスです。
まとめ
本記事は「ブラックホール情報パラドックス」について解説しました。如何だったでしょうか。
一般相対性理論と量子力学という、それぞれ極めて成功した2つの理論が、ブラックホールの蒸発という一点で正面から衝突しました。どちらかが必ず間違っているという状況こそが、次の理論への入口になるのだと思います。
落ちたものはどこへ行くのか。この素朴な問いが、量子重力という最難関の分野をここまで引っ張ってきたことに、私は素直に感心しています。
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