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【世界のパラドックス】飛ぶ矢のパラドックス ─ どの瞬間を切り取っても矢は止まっている

【世界のパラドックス】飛ぶ矢のパラドックス ─ どの瞬間を切り取っても矢は止まっている

当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「飛ぶ矢のパラドックス」について解説します。

空を飛んでいる矢を、写真のようにある一瞬だけ切り取ってみます。その瞬間、矢は自分の長さとぴったり同じ空間に収まっていて、どこにも動いていません。つまりその瞬間、矢は静止していることになります。ではどの瞬間でも静止しているものが、どうやって飛んでいるのでしょうか。アキレスとカメを考えたのと同じゼノンによる、運動そのものを否定する議論です。

図解

矢は飛んでいるあいだずっと止まっている

議論の組み立ては、拍子抜けするほど単純です。

まず、ある一瞬を考えます。その瞬間、矢はある場所を占めています。占めている空間の大きさは、矢そのものの大きさとまったく同じです。それより広くも狭くもありません。

次に、「自分と同じ大きさの空間にぴたりと収まっているもの」を考えます。それは動いていないということですから、静止していると言えます。

ここまでを合わせると、その瞬間において矢は静止しているという結論が出ますし、矢が飛んでいる時間は、こうした瞬間が集まってできています。

どの瞬間をとっても静止しているなら、その集まりである全体もまた静止しているはずです。よって矢は飛んでいない。運動というものは存在しない、というのがゼノンの結論でした。

ゼノンが本当に言いたかったこと

これを聞くと、屁理屈をこねているだけに見えるかもしれませんが、ゼノンには彼なりの目的がありました。

紀元前5世紀のエレアの哲学者ゼノンは、師であるパルメニデスの思想を守るためにこれらの議論を作ったとされています。パルメニデスは「あるものはある、ないものはない」という立場から、変化や運動、多様性はすべて感覚が作り出す見せかけだと主張していました。

当然ながら、当時の人々はこの主張を笑いました。目の前で物は動いているではないか、というという話になります。

そこでゼノンは反撃に出ます。運動が実在すると認めた場合に、どれほど奇妙な結論が導かれるかを並べてみせたのです。相手の前提から不合理を引き出す背理法の、おそらく歴史上もっとも早い使用例のひとつになっているのだと思います。

この議論はアリストテレスの『自然学』第6巻に記録されており、そのおかげで現代まで伝わりました。

どの前提が間違っているのか

現代の目から見ると、この論法には明確な弱点があります。怪しいのは2番目の前提です。

「自分と同じ大きさの空間を占めているなら、それは静止している」という部分ですが、これは本当でしょうか。

止まっている矢も、飛んでいる矢も、ある一瞬を切り取ればどちらも自分の長さぶんの空間を占めています。つまりその一瞬だけを見ても、止まっているのか飛んでいるのかは区別できません

区別がつかないということは、静止していると断定する根拠もないということです。ゼノンは「区別できない」「静止している」にすり替えてしまっているということですね。

運動とは、そもそも1つの瞬間の中に閉じた性質ではありません。前後の瞬間との関係ではじめて意味を持つものだという点が、この議論の見落としになっているという感じでしょうか。

微分が与えた答え

数学の側からきれいな答えが出たのは、17世紀に微分積分が整備されてからです。

ある瞬間の速度、いわゆる瞬間速度は、その瞬間の中で矢がどれだけ動いたかを測って求めるものではありません。「ごく短い時間に進んだ距離を、その時間で割った値の、時間をゼロに近づけたときの極限」として定義されます。

この定義であれば、矢が自分の長さぶんの空間にぴたりと収まっていることと、速度が秒速50メートルであることは、まったく矛盾なく両立します。

言ってしまえば、速度は「その瞬間に含まれている量」ではなく「その瞬間のまわりの様子から決まる量」だということです。ゼノンは瞬間の内側だけを覗き込んで、そこに運動が見当たらないと言っていたことになります。

動くとは、違う時刻に違う場所にいること

哲学の側からも、20世紀に整理が進みました。バートランド・ラッセルが提唱した、運動の「そこにある」説と呼ばれる考え方です。

物が動いているというのは、異なる時刻に異なる場所にいる、ただそれだけのことである。これがラッセルの主張でした。

各瞬間に、運動という特別な何かが宿っているわけではありません。瞬間ごとの位置がずれていく、その並び全体を私たちは運動と呼んでいるだけだ、という整理です。

この見方に立つと、飛ぶ矢のパラドックスは自然に解けます。各瞬間に運動が見当たらないのは当然で、そもそもそこには最初から何も宿っていないからです。

正直、この説明を最初に読んだときは肩透かしを食らった気分になりましたが、しばらく考えてみると「動いている感じ」のようなものを実体として探しに行くこと自体が思い込みだったのだろうと納得できるようになりました。

残り3つの運動のパラドックス

ゼノンは運動を否定する議論を全部で4つ残したとされているように思います。

二分法のパラドックスは、目的地に着くにはまず半分まで行かねばならず、その半分に着くにはさらにその半分を、と無限に遡るため、そもそも出発すらできないという議論です。

アキレスとカメは、足の速いアキレスが先行するカメに永遠に追いつけないという、もっとも有名な形になります。

飛ぶ矢が3つ目で、4つ目の競技場のパラドックスは、すれ違う列の相対的な速さから時間の最小単位に矛盾を導くものです。

4つとも狙いは共通していて、空間や時間を無限に分割できると認めるか、それとも最小単位があると認めるか、どちらの立場を取っても困ったことになると示す構成になっています。2500年前にここまで整理されていたことには、素直に驚かされます。

4つの議論が狙っていたもの

ゼノンの4つは、それぞれ別の前提を攻撃するように組まれています。並べると設計の周到さが見えてきます。

パラドックス攻撃する前提導かれる不合理現代の解決
二分法空間は無限に分割できる出発すらできない無限級数が有限値に収束する
アキレスとカメ空間も時間も無限に分割できる速い者が遅い者に追いつけない同じく級数の収束
飛ぶ矢時間は瞬間の集まりである運動が存在しない速度を極限として定義する
競技場時間には最小単位がある最小単位の半分が現れる相対速度を正しく扱う

前半2つは「無限に分割できる」を仮定した場合、後半2つは分割の限界を仮定した場合を攻めています。どちらに転んでも困るように配置されていて、単なる屁理屈ではないことが分かると思います。

量子ゼノン効果という現代の後継

ゼノンの名は、2400年後の物理学にも残りました。

見つめていると崩壊しない

不安定な粒子は放っておくと一定の割合で崩壊しますが、観測を極端に短い間隔で繰り返すと、崩壊がほとんど進まなくなります

観測のたびに量子状態が元に戻され、変化が積み上がる暇を与えないためです。1977年にミスラとスダルシャンがこの現象を指摘し、飛ぶ矢のパラドックスにちなんで量子ゼノン効果と名付けました。

実験で確認されている

1990年、アメリカ国立標準技術研究所のイタノらがベリリウムイオンを使い、観測の頻度を上げるほど状態変化が抑えられることを実測しました。効果は理論の予測どおりに現れています。

比喩ではなく実在する現象です。「見ている瞬間だけを切り取ると変化が消える」というゼノンの着眼が、量子の世界では文字どおり成り立ってしまう。名前だけの縁ではないところが面白いと思います。

なお、観測の間隔を中途半端に設けると逆に崩壊が速まる場合があり、こちらは反ゼノン効果と呼ばれています。効果の向きは観測の頻度で切り替わります。

量子計算の分野では、この性質を使って計算途中の状態が壊れるのを抑える手法が研究されています。2400年前の屁理屈が、量子コンピュータの誤り対策の文脈で顔を出すというのは、なかなか痛快な巡り合わせだと思います。

無限の操作に関わる関連パラドックス

無限に細かく分けるという発想が、そのまま直感との衝突を生む関連パラドックスです。

まとめ

本記事は「飛ぶ矢のパラドックス」について解説しました。如何だったでしょうか。

一瞬を切り取れば運動は消える。それでも矢は的に届きます。この食い違いは、運動を瞬間の中に探そうとしたことから生まれていました。

答えが出るまでに2000年以上かかったわけですが、必要だったのは新しい観測でも実験でもなく、速度という言葉をきちんと定義し直すことだけでした。そういう種類の難問なのだと思います。

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