当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「フランクフルトの事例」について解説します。
誰かを非難するとき、私たちは暗黙のうちに一つのことを前提にしています。その人には、別の行動を取ることもできたはずだということです。
やむを得ない事情で他に選べなかったのなら、責めるのは筋違いになります。この考え方は、法にも日常の判断にも深く食い込んでいます。
ところが1969年、ハリー・フランクフルトは他に選べなかったのに責任を負う場面を作ってみせました(本文はごく短い論文です)。短い論文ですが、自由意志をめぐる議論の枠組みそのものを変えてしまいました。
標的になった原理
フランクフルトが狙ったのは、「他行為可能性の原理」(principle of alternate possibilities)と呼ばれる考え方です。難しい名前ですが、中身は単純です。
人がある行為について道徳的な責任を負うのは、その人が別の行為をすることもできた場合に限る。
この原理は、ほとんど自明のものとして受け入れられてきました。そのため、自由意志をめぐる議論の土台に据えられていました。
もし世界が決定論的で、すべての出来事が前の状態から一意に決まっているなら、誰も別の行為をすることはできません。この原理を認める限り、決定論が正しければ誰にも責任がないことになります。自由意志と決定論をめぐる論争は、長らくこの構図の上で戦われてきました。
装置を仕込まれた男
フランクフルトが提示した設定は、次のようなものです。
ブラックという人物が、ジョーンズにある行為Aを実行させたいと考えています(名前は論文のとおりです)。そこでブラックは、ジョーンズの脳に介入装置を仕込みました。装置の働きはこうです。
- ジョーンズが自分からAを選ぶなら、装置は何もしない
- ジョーンズがA以外を選ぼうとする兆候を見せたら、装置が作動してAを強制する
ブラックは、この装置を使ってでもAを実行させるつもりです。したがって、ジョーンズがAを実行することは、はじめから確定しています。
さて、実際に何が起きたか。ジョーンズは、自分自身の理由でAを選びました。装置は一度も作動していません。ブラックは、ただ見ていただけです。
二つの事実が同時に成り立つ
この場面を整理すると、次の二つが同時に成り立っています。
ジョーンズには、他行為の可能性がなかった。何を考えようと、結果はAになるように仕組まれていました。
それでもジョーンズは、Aについて責任を負う。彼は自分の考えでAを選び、装置は何の役割も果たしていません。彼が実際に行ったことは、装置がなかった場合とまったく同じです。
もしこの判断が正しいなら、他行為可能性の原理は偽だということになります。責任を根拠づけているのは「他にできたかどうか」ではないことになるからです。
では、何が責任を根拠づけるのか
フランクフルトの答えは、行為が本人から出ているかどうかというものです。
その行為が、本人の考えや欲求や判断を通って生じたのなら、責任がある。外から押し込まれたのなら、責任はない。大事なのは選択肢の数ではなく、実際にどこから行為が出てきたかだ、というわけです。
この見方が正しければ、決定論と責任は両立します。世界が決定論的であっても、私の行為が私の思考を経由して生じているなら、それは私の行為です。この論文が両立論を強く後押ししたと評価されるのは、そのためです。
フランクフルト自身は、後に自由意志について独自の理論を展開しました。彼が重視したのは、自分が持ちたいと思う欲求を実際に持っているかという点です。やめたいのにやめられない状態と、望んでそうしている状態の違いが、自由の中身だと考えました。
反論
この論文は大きな影響を与えましたが、決着したわけではありません。有力な反論を二つ挙げます。
自由の微光(flicker of freedom)。ジョーンズには、まったく選択の余地がなかったのでしょうか。よく見ると、装置が作動する引き金となる兆候を、見せるか見せないかという違いは残っています。
装置が働くのは兆候が現れた後です。だとすれば、兆候を出すか出さないかという微小な岐路が存在したことになります。わずかでも別の可能性が残っているなら、原理は破られていません。
これに対しては、そのような微細な差が責任の根拠になるとは考えにくい、という再反論があります。兆候を出すかどうかを、道徳的に意味のある選択と呼べるのか、という点です。
ジレンマ論法。より鋭い批判がこちらです。兆候と行為の関係が、どういう性質なのかを問い詰めます。
もし兆候から行為までが決定論的につながっているなら、この設定はすでに決定論を前提にしています。証明したいことを最初から仮定していることになり、反例として機能しません。
一方、その関係が非決定論的なら、ブラックは確実な予測ができません。兆候が出ても別の行為に至らない可能性があるので、介入の判断そのものが成り立たなくなります。
どちらに転んでも設定が壊れる、という指摘です。これに応じるため、装置の仕組みを変えた改良版がいくつも提案されてきました。議論は現在も続いています。
この議論が変えたもの
私は、この論文の最大の功績は論争の焦点を移したことにあると考えています。
それまでの自由意志論争は、「私たちは別の行為をすることができたのか」という一点をめぐって行われていました。決定論を認めるかどうかが、そのまま責任の有無に直結する構図です。
フランクフルトの事例は、この直結を切りました。他行為の可能性がなくても責任がありうるなら、決定論の真偽と責任の有無は、別々に議論できることになります。
以後の研究は、行為がどのように本人から出てくれば、それを本人のものと呼べるのかという方向へ移っていきました。可能性の数を数えるのではなく、行為の由来を見る。この転換は、法における責任能力の議論とも自然につながっています。
フランクフルトの事例について気になること
現実には、こんな装置はありませんが
もちろんありません。しかし、構造としては現実にも似た場面があります。
たとえば、どのみち解雇されることが決まっていた社員が、その前に自分の判断で不正を行った場合。結果は変わらなかったとしても、彼が行ったことについての責任は残ります。結果が確定していることと、行為が本人から出ていることは別だという点は、実務でも普通に区別されています。
強制されて行った場合は、どうなるのですか
その場合は責任を負いません。装置が実際に作動していたなら、行為はブラックのものになります。
この違いが、フランクフルトの主張の要点です。同じ結果が生じていても、それがどこから出てきたかによって責任の帰属が変わります。可能性の数ではなく、実際の経路を見るという発想が、ここに現れています。
自由意志の問題は解決したのですか
していません。ジレンマ論法をはじめとする批判は依然として強く、改良版と再反論の応酬が続いています。
ただ、議論の地図が書き換わったことは確かです。現在の自由意志論では、他行為の可能性を責任の条件として無条件に置く論者は多くありません。決着していないが、前提は変わった。哲学の論文としては、これ以上ない働きをしたと言えると思います。
関連する思考実験
行為と責任の関係を扱った記事です。フランクフルトの事例と並べると、責任がどこから来るのかという論点がはっきりします。
まとめ
本記事は「フランクフルトの事例」について解説しました。如何だったでしょうか。
他に選べなかったのに、責任がある。この一見して矛盾しそうな組み合わせが、装置を一つ仕込むだけで作れてしまう。しかも、その装置は最後まで作動しません。設定の巧妙さという点で、思考実験の中でも屈指のものだと思います。
そして残ったのは、責任を支えているのは可能性の数ではなく、行為の出どころだという見方でした。反論は今も続いていますが、議論の焦点をずらしたという意味では、すでに役目を果たしていると言えます。
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