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【有名な思考実験】悪の問題 ─ 善き神がいるなら、なぜこの世に苦しみがあるのか

【有名な思考実験】悪の問題 ─ 善き神がいるなら、なぜこの世に苦しみがあるのか

当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「悪の問題」について解説します。

すべてを知り、すべてができ、しかも完全に善い神がいるとします。ならば、なぜこの世界には、子どもが理不尽に苦しむような出来事が絶えないのでしょうか

この問いは二千年以上にわたって繰り返されてきました。信仰を持つ人にとっても、持たない人にとっても、宗教をめぐる議論でもっとも避けにくい急所になっています。「神義論」と呼ばれる分野は、まるごとこの問いへの応答として作られてきました。

答えは出ていません。ただ、どこがどう難しいのかは、驚くほど整理されています。その整理の中身をまとめました。

図解

三つの主張が同時に立たない

この問題のもっとも古い形は、古代ギリシアの哲学者エピクロスに帰されるものです。厳密には、後の時代の著作家が彼の名前で伝えたもので、本人の言葉かどうかは疑わしいとされています。それでも、問いの骨格を示すには今も最良の形です。

18世紀にヒュームが著作の中で引用した形を整理すると、次のようになります。

神は悪を防ぐことを望んでいるが、できないのか。ならば全能ではない。できるが望まないのか。ならば善ではない。できるし望んでもいるのか。ならば、悪はどこから来るのか。

つまり、次の三つの主張が同時には成り立たないように見えるという指摘です。

  1. 神は全能である(できないことがない)
  2. 神は全善である(悪を望まない)
  3. 悪は現に存在する

三つ目は、目を開けていれば確認できてしまいます。だとすれば、一つ目か二つ目を手放すしかないのではないか、というのがこの問題の圧力です。

二種類の悪の問題

現代の議論では、この問題は二つに分けて扱われます。この区別を知っておくと、話がずいぶん整理されます。

種類主張の強さ何を示そうとするか
論理的な悪の問題強い三つの主張は論理的に両立しない。だから神は存在しない
証拠的な悪の問題弱いが手強い矛盾はしないが、悪の量と質が神の存在をありそうになくする

論理的なほうは、20世紀半ばに厳密な形で提出されました。「全能で全善な存在がいるなら悪は存在しないはずだ」という前提を置き、そこから矛盾を導く議論です。

ところが、この形は現在ではおおむね決着したと見なされています。次に説明する自由意志による弁護が、両立可能性を示すことに成功したと広く受け止められているためです。

代わって議論の中心になったのが、証拠的なほうです。「矛盾しないことは認める。しかし、これほどの苦しみがあることは、神が存在しない証拠として重い」という主張になります。矛盾を突く議論より弱く聞こえますが、実際にはこちらのほうが手強いとされています。

自由意志による弁護

論理的な悪の問題への応答として決定的だったのが、「自由意志による弁護」(free will defense)です。

議論の筋はこうです。神は、自由な意志を持つ被造物を創造することを選びました。自由な意志とは、善も悪も選べるということです。悪を選ぶ可能性を残さずに自由を与えることは、全能であっても不可能です。それは「四角い円を作れ」と言うのと同じで、能力の欠如ではなく、要求のほうが成り立っていないからです。

そして、自由な存在がいる世界は、操り人形だけがいる世界より価値が高い。だから神は、悪の可能性を含む世界を選んだ。これなら、三つの主張は矛盾しません。

この応答が示しているのは、「神が悪を許す理由がありうる」ということだけです。実際にそれが理由だと証明したわけではありません。ただ、論理的な両立不可能性を主張する側は、どんな理由もありえないことを示さなければならないので、可能性を一つ挙げるだけで反論として成立します。

自然災害という難所

しかし、この弁護には明らかな限界があります。地震も、津波も、感染症も、誰の自由意志の産物でもないということです。

人間が起こす悪は道徳的な悪と呼ばれ、自由意志で説明できます。一方、自然が引き起こす苦しみは自然悪と呼ばれ、この筋では説明が届きません。生まれつきの病で苦しむ子どもに、自由意志の話をしても始まりません。

証拠的な悪の問題が力を持つのは、まさにここです。よく引かれるのが、森の中で落雷による火災に巻き込まれ、誰にも知られずに苦しんで死ぬ子鹿という例です。この苦しみは、誰の自由も守っておらず、誰の成長にもつながらず、誰の目にも触れません。この一件に、いったいどんな目的がありうるのかという問いになります。

主な神義論

それでも、応答は数多く提出されてきました。代表的なものを整理します。

魂の成長という説明。この世界は快適な楽園としてではなく、人が成長するための場として設計されている、という考え方です。苦難のない世界では、勇気も同情も忍耐も育ちません。徳が育つには、それが必要になる状況が要るという筋になります。

懐疑的有神論。私たちには、神が持つ理由を見通す能力がない、という応答です。「理由が見当たらない」ことは「理由がない」ことを意味しないという指摘で、証拠的な悪の問題への直接の反撃になっています。ただし、この応答を強く押すと、神の善さについても私たちは判断できないことになり、信仰の側にも代償が生じます。

最善世界説。神は、可能なあらゆる世界の中から最善のものを選んだ、という説明です。この世界に悪があるのは、それを取り除くと全体としてはもっと悪くなるからだ、と考えます。18世紀に大地震が起きたあと、この考え方は激しく風刺されることになりました(数万人が犠牲になったリスボンの地震です)。

悪は欠如である。悪とは実体ではなく、善が欠けた状態にすぎない、という古い考え方です。神が悪を創造したわけではない、という論法になります。ただ、苦しんでいる当人にとって、それが欠如であろうと実体であろうと違いはありません。

東洋の宗教では形が変わる

なお、この問題は唯一で全能で全善の神を立てる宗教に特有のものだという点は押さえておく価値があります。

善神と悪神が対立する二元論の体系では、悪の存在は説明を必要としません。悪の側の勢力がやっていることだ、で済みます。業と輪廻を軸にする体系でも、苦しみは過去の行いの結果として位置づけられるので、全能者の責任という形にはなりません。

つまり悪の問題は、神の性質をどれだけ強く設定したかの代償として現れます。全能でも全善でもない神なら、この問いは生じません。私はこの点が、この問題を眺めるうえで一番見通しをよくしてくれる視点だと考えています。

悪の問題をめぐる疑問

結局、この議論は無神論の証明になるのですか

なりません。論理的な悪の問題は反駁されたと広く受け止められていますし、証拠的な悪の問題も、神の存在をありそうになくする議論であって、否定する証明ではありません

一方で、有神論の側が完全な説明を与えられているわけでもありません。多くの神学者は、説明しきれない部分が残ることを認めたうえで信仰を保つという立場を取っています。決着していないという状態のまま、双方が同じ問題を見つめ続けているのが現状です。

苦しんでいる人に向かって、神義論を語ってよいのですか

これは哲学の外側にある問いですが、非常に大事な点だと思います。神義論はあくまで理論の整合性を扱う議論であって、目の前の苦しみへの応答ではありません。

「あなたの苦しみには意味がある」と第三者が告げることは、慰めどころか加害になりえます。宗教の実践の側でも、この点は繰り返し戒められてきました。理論としての強さと、人に向けて口にしてよいかは、別の物差しで測るべきものだと思います。

信仰を持たない人が考える意味はありますか

あると思います。この議論の骨格は、「望ましい性質をいくつも同時に要求すると、両立しなくなる」という一般的な形をしています。

完全に自由で、完全に安全で、完全に公平な制度を同時に作れるか。同じ形の問いは、設計の場面でいくらでも出てきます。どれを弱めるかを決めないと前に進めないという構造を、悪の問題はもっとも極端な例で見せてくれます。

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神の性質と、それが引き起こす難問を扱った記事です。悪の問題と並べると、全能や全善という設定の重さが見えてきます。

まとめ

本記事は「悪の問題」について解説しました。如何だったでしょうか。

全能・全善・悪の存在という三つのうち、どれかを手放さなければならないように見える。この単純な形が二千年にわたって議論され続けてきたのは、どの手放し方にも重い代償があるからだと思います。

自由意志による弁護は論理的な矛盾を解きましたが、自然災害の前では力を失います。魂の成長という説明も、動物や幼児の苦しみをうまく扱えません。どの応答も、どこかに埋まらない部分を残しています。問いのほうがよくできているという言い方が、この問題にはいちばん似合うのだろうと思います。

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