未解決問題

【未解決問題】ナビエ・ストークス方程式 ─ 天気予報が毎日使う式に100万ドルの謎

【未解決問題】ナビエ・ストークス方程式 ─ 天気予報が毎日使う式に100万ドルの謎

当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は物理と数学の境界に立つ未解決問題「ナビエ・ストークス方程式」について解説します。

蛇口をゆっくりひねると、水は透明な棒のようにまっすぐ落ちます。もう少しひねると、ある瞬間から流れは乱れ、渦を巻き、二度と同じ形を繰り返さなくなります。この「乱れ」を支配しているのが、約200年前に書き下されたナビエ・ストークス方程式です。天気予報も航空機の設計も、毎日この方程式を使っています。ところが数学の目で見ると、この方程式には「答え(解)がいつまでも存在し続けるのか」という入り口の問いにすら証明がありません。この問いには100万ドルのミレニアム懸賞がかかっています。

図解

水と空気の運動方程式

ナビエ・ストークス方程式とは、水や空気のような流体の速度が、時間とともにどう変化するかを記述する方程式です。19世紀前半、フランスの技術者ナビエが原型を作り、イギリスの物理学者ストークスが仕上げました。中身は要するにニュートンの運動方程式の流体版で、「流体の各部分は、押される力と粘り気に従って動く」ということを数式にしたものです。

適用範囲は圧倒的です。コップの中の水、血管を流れる血液、翼の周りの空気、台風、海流、銀河のガスまで、目に見えるスケールの流れはほぼすべてこの1本の方程式の支配下にあります。天気予報は地球大気にこの方程式(の親戚)を当てはめてスーパーコンピュータで数値計算していますし、航空機や自動車の設計現場では、風洞実験の多くが方程式の数値シミュレーションに置き換わりました。

つまり、「使う」という意味では人類はこの方程式を完全に手なずけています。問題は、「理解する」</strong という意味では入り口で立ち往生していることです。

100万ドルの問いは「解は爆発しないか」

2000年、クレイ数学研究所はこの方程式を「ミレニアム懸賞問題」の一つに選びました。懸賞の問いは、意外なほど素朴です。

3次元空間で、滑らかな初期状態から出発したとき、ナビエ・ストークス方程式の滑らかな解は、いつまでも存在し続けるか。それとも有限時間で破綻(爆発)することがあるか。

「爆発」とは、解のどこかの点で速度や渦の強さが有限の時間内に無限大に発散してしまうことを指します。物理的に言えば、穏やかな水面から出発したのに、方程式の上では有限時間後に流れが数学的に壊れてしまうかもしれない、ということです。現実の水がそんな挙動を見せる気配はありません。しかし「方程式の解がそうならない」という保証は、200年間誰も与えられていないのです。

分かっていることを整理します。1934年、フランスのルレイが「弱い解」と呼ばれる緩い意味での解がいつまでも存在することを証明しました。ただしこの弱い解は、滑らかさや一意性(答えが1通りに決まること)が保証されない妥協の産物です。また、世界を平面に制限した2次元の場合は、滑らかな解が永遠に存在することが証明済みです。つまり問題の核心は3次元にだけ潜んでいます。2014年には数学者テレンス・タオが、方程式を少し改造した「平均化版」なら実際に有限時間で爆発する解を作れることを示し、「本物の方程式でも爆発があり得るかもしれない」という方向の研究に弾みがつきました。現在は「永遠に滑らか」派と「爆発あり得る」派のどちらが正しいか、専門家の意見も割れています。

乱流という「古典物理最後の難問」

なぜ3次元だけがこれほど難しいのか。鍵は乱流にあります。

流れには2つの顔があります。ゆっくりした流れは層流と呼ばれ、行儀よく滑らかで、数学的にも扱いやすい。ところが速度が上がると、流れは突然乱流に転移します。大きな渦が小さな渦を生み、その渦がさらに小さな渦を生む。この「渦のカスケード」がエネルギーをどんどん細かいスケールへ運ぶため、3次元の乱流ではいくらでも細かい構造が生まれ得ます。解の爆発が起こるとすれば、まさにこの無限に細かくなろうとする構造の中です(2次元では渦の引き伸ばしという機構が働かないため、この暴走が起きません)。

層流から乱流への切り替わりを最初に体系的に調べたのは、19世紀のレイノルズです。ガラス管の水流に染料の筋を流すという素朴な実験で、流れが遅いうちは染料が1本の線を保ち、ある速度を超えると突然かき乱されることを示しました。この切り替わりを支配する指標はレイノルズ数と呼ばれ、今も流体力学の共通言語です。実験自体は中学の理科室でも再現できるのに、その背後の数学は100万ドルの未解決問題という奥行きが、いかにもこの分野らしいところです。

乱流は、物理学者ファインマンが「古典物理学に残された最も重要な未解決問題」と評したことでも知られています。量子力学や相対性理論という「遠い世界」の理論が整備された後も、コップの水という「一番身近な世界」の完全な理解が残ってしまった。この皮肉な構図が、ナビエ・ストークス問題の物語としての魅力だと思います。

保証のない道具で飛行機が飛んでいる件

ここで当然の疑問が湧きます。解の存在すら保証されていない方程式で、なぜ天気予報や航空機設計が成立しているのでしょうか。

実務が使っているのは、方程式の厳密な解ではなく数値的な近似解です。空間と時間を細かい格子に刻み、格子の上で方程式をなぞる。最新の全地球気象モデルでは格子点は億の単位に達しますが、それでも乱流の最小の渦にはまるで届かないため、細かすぎる渦は「乱流モデル」と呼ばれる経験的な近似で置き換える。この工学の総力戦は、実験や観測と突き合わせて検証されており、実用上は十分に信頼できることが分かっています。

ただし、数学的保証の不在は、実務にも影を落とします。数値計算の結果がどこまで本物の解に近いのか、乱流モデルの誤差はどの程度か、という問いの根本的な答えは、解そのものの理解なしには得られません。天気予報の精度向上や乱流の制御(航空機の燃費はここに直結します)には、いずれ数学の進展が必要になる。100万ドルの問いは、実は産業の足元につながっているのです。

私はこの問題の「毎日使えているのに、分かっていない」という構図が好きです。理解と実用の間には、思っているより広い隙間がある。ソフトウェアの世界で「動いているが、なぜ動くのか誰も説明できないコード」に出会うたび、私はナビエ・ストークス方程式のことを少し思い出します。

天気予報はなぜ今日も当たるのか

解が「爆発」したら、現実の水も爆発するのですか?

しません。ここは誤解しやすい点で、爆発はあくまで方程式というモデルの破綻です。現実の水は分子でできており、無限に細かい渦は物理的に存在できません。もし解の爆発が証明されたら、それは「ナビエ・ストークス方程式は連続体近似の限界を超えるとモデルとして壊れる」ことの発見であり、現実の水の異常ではなく方程式と現実のずれの発見になります。どちらの結末でも物理学にとって大収穫、というのがこの懸賞問題の面白いところです。

天気予報が外れるのは、この未解決問題のせいですか?

主因は別です。予報が外れる最大の理由は、大気がカオス的で初期値のわずかな誤差が数日で増幅されること(いわゆるバタフライ効果)と、観測データや計算格子の解像度の限界です。これは解の存在問題とは別の困難で、仮にミレニアム懸賞が解決しても週間予報が劇的に当たるようにはなりません。ただし乱流の数学的理解が進めば、予報モデルの近似部分の改善につながる可能性はあります。「無関係ではないが、直結もしていない」が正確な距離感です。

ミレニアム懸賞問題としての進み具合はどうなのですか?

7問の中では「手がかりの少なさ」で知られる問題です。リーマン予想には膨大な部分的結果があり、P対NP問題には「この方法では解けない」という壁の定理群がありますが、ナビエ・ストークス問題は肯定(永遠に滑らか)と否定(爆発あり)のどちらに向かうべきかすら定まっていません。近年はタオの平均化方程式の研究や、関連する流体方程式で実際に爆発解を構成する研究が進み、「爆発あり得る」方向の傍証がじわじわ増えているのが最新の空気です。決着はまだ遠いというのが大方の見立てです。

関連する未解決問題・パズル

同じく予測不能性が主役の「3体問題」、ミレニアム懸賞仲間の「P対NP問題」、熱と情報の物理に切り込む「マクスウェルの悪魔」の記事です。

まとめ

本記事は「ナビエ・ストークス方程式」の未解決問題について解説しました。如何だったでしょうか。

蛇口の水から台風まで支配する200年物の方程式に、「答えは存在し続けるのか」という一番最初の問いが残っている。しかも実務では毎日フル稼働している。理解より先に実用が走るこの逆転は、科学の現場では珍しくないのだと教えてくれる問題です。

次に台風の進路予報の円を見るとき、その裏で回っている方程式に100万ドルの謎が眠っていることを思い出すと、天気図が少しスリリングに見えてくるはずです。

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