当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は数学界で最も奇妙な状況に置かれている難問「ABC予想」について解説します。
普通、未解決問題の状態は「未解決」か「解決」の二択です。ところがABC予想は、2012年に京都大学の望月新一氏が600ページ超の証明を発表してから10年以上経った今も、「証明されたかどうか」自体に数学界の意見が割れているという、前代未聞の第三の状態にあります。本記事では、まず予想そのものを足し算と掛け算の話として理解し、そのうえでこの膠着状態を、どちらの側にも肩入れせずに整理します。
足し算と掛け算は、実は仲が悪い
ABC予想の主役は、足し算の世界と掛け算の世界の関係です。
整数の世界には2つの顔があります。足し算の顔で見ると、9は「1+8」です。掛け算の顔で見ると、9は「3×3」、8は「2×2×2」です。素因数分解は掛け算の世界の情報であり、足し算とはまるで別の原理で動いています。「aとbを足してcになるとき、3つの数の素因数の間に何か関係はあるのか」という問いは、単純に見えて、実は2つの世界に橋を架ける大問題なのです。
ここで「素因数の芯」という道具を導入します。ある数たちに登場する素因数を、重複を数えずに1回ずつ掛け合わせた数です(専門用語では根基と呼びます)。たとえば1+8=9という式なら、登場する素因数は2と3だけなので、芯は1×2×3=6です。8の中で2が3回、9の中で3が2回使われていても、芯には1回ずつしか数えません。
予想の主張は「cが芯を大きく超えるのは珍しい」
準備ができたので、ABC予想の中身です。互いに素因数を共有しないaとb、そしてその和c(a+b=c)について考えます。
多くの場合、cは3つの数の素因数の芯より小さくなります。たとえば3+7=10なら、芯は3×7×2×5=210で、c=10より断然大きい。ところが、たまに逆転が起きます。先ほどの1+8=9では、芯が6でc=9。cが芯を上回ってしまいました。これは、8=2×2×2、9=3×3のように「少ない種類の素因数が何度も使い回される」特殊な状況で起こります。
ABC予想が主張するのは、大まかに言えばこうです。
このような「cが芯を(少しでも余裕をもって)上回る」例外的な組は、有限個しか存在しない。
つまり、「足し算で作った数が、掛け算の素材の使い回しだけで大きくなるのには限界がある」という主張です。1985年にフランスのオステルレとイギリスのマッサーが定式化したこの予想は、足し算と掛け算の関係を一撃で縛る強力さから、整数論の「万能ナイフ」と呼ばれることになります。ちなみに名前の由来は、本当にa、b、cという3つの数の頭文字です。世紀の大予想としては拍子抜けするほど素朴な命名で、私はそこも含めて気に入っています。
証明されると何が芋づる式に落ちるのか
ABC予想の重要性は、その帰結の豪華さにあります。この予想ひとつが証明されると、整数論の有名な難問がまとめて系(おまけの定理)に格下げされるのです。
代表例が、360年かかって1995年に証明された「フェルマーの最終定理」です。ABC予想が正しければ、フェルマーの最終定理の大部分(十分大きい指数の場合)は、わずか数行の議論で導けることが知られています。ワイルズが100ページ超を費やした偉業が、ABCの前では演習問題級になってしまう。他にも、方程式の整数解の有限性に関する複数の大定理や未解決予想が、ABC予想から一斉に従います。
このため、ABC予想は「リーマン予想と並ぶ整数論の最重要予想」と評されてきました。逆に言えば、それほどの怪物予想が証明されたと主張されたとき、検証が尋常でない重みを持つのは当然のことでした。
2012年、そして前代未聞の膠着へ
2012年8月、京都大学数理解析研究所の望月新一氏が、自身のサイトに4本組・計600ページを超える論文を公開しました。「宇宙際タイヒミュラー理論」と名付けられた、ほぼ独自開発の理論体系によるABC予想の証明です。
事態が異例だったのは、その後です。通常なら世界中の専門家が検証し、数年で受理か棄却が決まります。ところがこの理論は、用語も発想も既存の数学から隔絶しており、「読める人がほとんどいない」状態が続きました。検証の集会が各国で開かれ、京都に通って理解を試みる数学者も現れましたが、賛否は収束しません。
2018年には、フィールズ賞受賞者のショルツェ氏らが京都で望月氏と直接議論したうえで、「証明の核心部分に埋められない飛躍がある」とする批判を公表しました。望月氏側は「批判は理論の誤解に基づく」と全面的に反論。論文は2021年に専門誌に正式掲載されましたが、掲載誌が望月氏の所属機関の発行であることも議論を呼び、国際的な数学界の主流は現在も証明を受け入れていません。一方で理論を支持し研究を続けるグループも存在し、近年は理論の不備を発見した人への懸賞金まで民間から設定されるという、異例ずくめの展開が続いています。
私はこの状況を、数学という営みの本質が露出した事件だと思って眺めています。数学の証明は、論理的に正しいだけでは完結せず、共同体に理解され、納得されて初めて「定理」になる。ABC予想は、その社会的な側面を一番痛烈な形で教えてくれる現在進行形の教材です。
宇宙際タイヒミュラー理論とは何なのか
検証を阻んでいる理論の中身についても、雰囲気だけ紹介しておきます。
ABC予想の難しさの根は、足し算と掛け算が同じ数の上で固く絡み合っていて、片方だけを動かせないことにあります。望月氏の宇宙際タイヒミュラー理論が試みるのは、乱暴に要約すれば「数学の世界そのもののコピーを複数用意し、コピー同士を少しずつずらしてつなぐことで、足し算と掛け算の絡みをほどく」という、土台からの作り直しです。「宇宙際」という言葉は、この「数学世界(宇宙)とコピーの間」を行き来する発想から来ています。
構想の壮大さは伝わると思いますが、これを厳密にやり切るために独自の概念と記法が大量に必要になり、結果として読解には数年単位の投資が必要と言われる理論になりました。2015年にはイギリス、2016年には京都で国際検証集会が開かれましたが、参加した第一線の数学者たちからも「核心に近づくほど追えなくなる」という感想が相次ぎ、理解者の輪は限定的なままです。
さらに2023年には、実業家の出資によって、理論に重大な欠陥を発見した研究者へ最大100万ドルを贈る民間の賞まで創設されました。「正しさの証明」ではなく「誤りの発見」に賞金がかかるという、数学史でも異例の事態です。それだけこの膠着が、通常の査読プロセスでは解けない性質のものだと認識されている、ということでもあります。
結局、証明されたのかされていないのか
中立的に言うと、今はどういう状態なのですか?
事実だけ並べると、①証明を主張する論文が査読を経て専門誌に掲載されている、②その一方で、フィールズ賞受賞者を含む複数の第一線の数学者が証明の不備を指摘し撤回していない、③国際的な教科書や総説では現在もABC予想は「未解決」として扱われることが多い、となります。「掲載済み、ただし数学界全体の合意は成立していない」という要約が、どちらの立場にも公平なところだと思います。本記事が本予想を未解決問題として紹介しているのも、この現状の慣例に従ったものです。
素人でも例外的な組を探して遊べますか?
遊べます。例外組の代表例は本文の1+8=9のほか、5+27=32、1+48=49などがあり、小さい数なら手計算で「芯」と比べられます。ちなみに知られている中で最も極端な例の一つは「2+(3の10乗×109)=23の5乗」という組で、cが芯を大きく引き離すことで有名です。電卓で確かめてみると、この予想が縛ろうとしている「使い回しの魔力」が体感できると思います。
フェルマーの最終定理はもう証明済みなのに、なぜABC予想が重要なのですか?
個別の定理の証明と、それらを量産する原理の証明は価値が違うからです。フェルマーの最終定理は1本の頂上でしたが、ABC予想は山脈全体を見下ろす高台にあたります。仮に将来、誰もが納得する証明が確立すれば、整数の方程式に関する多数の問題が統一的な視点から処理できるようになります。数学者が10年以上この膠着に付き合い続けているのは、賭け金がそれだけ大きいからです。
関連する未解決問題・パズル
同じ整数論の頂点「リーマン予想」、証明の検証というテーマを共有する「P対NP問題」、数学の土台が揺れた事件「ラッセルのパラドックス」の記事です。
まとめ
本記事は「ABC予想」について解説しました。如何だったでしょうか。
足し算と掛け算という小学校の道具の間に、これほど深い謎が横たわっていること。そして「証明された」の一言が、これほど言いにくい状況があり得ること。ABC予想は、問題の中身と人間ドラマの両面で規格外の存在です。
膠着がどう決着するのか、私には予想がつきません。ただ、決着の日にはフェルマーの最終定理級のニュースになることだけは確かです。1+8=9という小さな式を覚えておくと、その日の報道がぐっと身近になるはずです。
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それでは次の記事も閲覧いただけると幸いです。
📚 シリーズ:数学・科学の未解決問題(6/16)






