当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「ラバーハンド錯覚」について解説します。
ラバーハンド錯覚は、ついたての向こうに隠した自分の手と、目の前に置いたゴム製の偽物の手を、2本の筆で同時になで続けられると、だんだんゴムの手が自分の手のように感じられてくる現象のことです。1998年にアメリカの研究者マシュー・ボトヴィニックとジョナサン・コーエンが科学誌『ネイチャー』に発表し、「この体は自分のものだ」という、ふだん疑うこともない感覚が、目で見た情報と触られた感覚の組み合わせから作られていることを示した実験として知られています。
道具さえあれば家でも試せるので、テレビ番組や科学館の展示などで体験したことがある人もいるかもしれません。触られているのは隠れた自分の手なのに、目に見えているゴムの手のほうで触られているように感じる、という不思議な感覚は、一度体験すると忘れられないものだと言われます。
一方で2020年には、この錯覚は、参加者が「こう感じるはずだ」と期待して、自分の感じ方を合わせてしまうことで生まれているのではないかという研究が発表され、研究者の間で論争が続いています。錯覚そのものは本物なのか、それとも期待の産物なのか、という問いは、体の感覚がどこまで頭の中で作られているのかという、さらに大きな問いにもつながっています。
筆でなでる、とても単純な実験
ボトヴィニックとコーエンの実験の手順は、とても単純なものでした。参加者は机の前に座り、左手を机の上に置きます。その左手と体のあいだにはついたてが立てられ、参加者からは自分の左手が見えません。代わりに、参加者の目の前には、ゴム製の左手の模型が置かれました。
参加者がゴムの手を見つめているあいだ、研究者は2本の絵筆を使って、隠れている本物の手と、目の前のゴムの手の同じ場所を、同じタイミングでなで続けます。
しばらく続けると、多くの参加者が、筆でなでられている感覚を、目の前のゴムの手で感じているように思えてきます。実験の後の質問では、「ゴムの手が自分の手のように感じた」、「感じた触覚は、ゴムの手をなでている筆によるものだと思えた」といった文に、多くの参加者が当てはまると答えました。
自分の手の位置までずれた
ボトヴィニックとコーエンは、感じ方を尋ねるだけでなく、もう少し客観的な方法でも錯覚を確かめています。目を閉じた状態で、隠れている自分の左手がどこにあると思うかを、右手で指してもらいました。
すると、筆でなでられた後の参加者は、自分の手の位置を、実際よりゴムの手のほうへずれた場所に指し示しました。体の位置の感覚そのものが、目に見えるゴムの手のほうへ引き寄せられていたと言えるでしょう。
タイミングをずらすと錯覚は弱まる
この錯覚で大事なのは、2本の筆の動きがそろっていることです。後の多くの研究で、本物の手とゴムの手をなでるタイミングをずらすと、錯覚はぐっと弱まることが確かめられてきました。そのため、タイミングをずらした条件は、錯覚が起きていないときの比較として、この分野の実験の基本になっています。
脳は、目で見た触られ方と体で感じた触られ方がぴったり一致したとき、それを同じ1つの出来事だと判断し、目に見えている手を自分の手として取り込んでしまうのではないか、と考えられています。
ゴムの指を反らされると
錯覚が起きているとき、ゴムの手が傷つけられそうになったら、人はどう反応するのでしょうか。2003年に心理学者のキャスリーン・アーメルと神経科学者のV・S・ラマチャンドランが、それを確かめる研究を発表しています。
錯覚が起きた後で、研究者がゴムの手の指を、関節とは逆の向きにぐっと反らせてみせると、参加者の皮膚の電気反応、つまり緊張したときに出る手の汗の量の変化がはっきり大きくなりました。参加者の中には、思わず笑ってしまったり、目を大きく見開いたり、身をすくめたり、自分の本物の手を引っ込めたりする人もいて、本番と予備の実験を合わせた120人のうち2人は、実際に痛みを感じたと答えたそうです。
何もされていない自分の手に、体が危険を感じて反応していたわけで、錯覚が口先だけの答えではなく、体の反応にまで表れていることを示した結果として、よく引用されています。
脳のどこで起きているのか
2004年には、スウェーデンの神経科学者ヘンリク・エーションたちが、脳の活動を測るfMRIの中でラバーハンド錯覚を起こす実験を発表しました。その結果、錯覚が起きているあいだ、目で見た情報と体の感覚をまとめる働きを持つ前運動野と呼ばれる場所の活動が強まっていて、ゴムの手が自分の手だと感じる度合いが強い人ほど、その活動も強かったと報告されています。
エーションたちはその後、同じ考え方を体全体に広げ、カメラ付きのゴーグルを使って、自分の体の外から自分を見ているように感じさせる体外離脱のような錯覚を起こす実験も行っています。
手を失った人の義手へ
この研究は、医療への応用も期待されています。2008年にエーションたちは、事故や病気で腕を失った人を対象に、腕の残った部分をなでながら、同じタイミングでゴムの手をなでる実験を行いました。すると、多くの参加者が、ゴムの手を自分の手のように感じたと報告されています。
義手を自分の体の一部のように感じられれば、使いやすさや、なくした手足が痛むように感じる幻肢痛にも良い影響があるかもしれない、と考えられていて、触った感覚を伝えられる義手の研究などに生かされています。
鏡を使った幻肢の治療
アーメルと一緒に研究を行ったラマチャンドランは、1990年代に、なくした手足がまだあるように感じられ、そこが痛む幻肢痛の治療にも、似た考え方を持ち込んでいます。真ん中に鏡を立てた箱に、残っている手と、なくした手のあった側の腕を入れ、鏡に映る残った手を見ながら両手を同じように動かしてもらうと、鏡の中の手が、なくした手のように見えます。
ラマチャンドランの最初の報告では、10人中6人が、なくした手が動いたように感じ、手が固く握りしめられたように痛む発作に悩んでいた5人のうち4人で、それが和らいだとされています。このミラーセラピーはその後広く試されるようになりましたが、偽の手当てと比べた質の高い試験だけをまとめた2023年の分析では、はっきりした効果は確かめられなかったと報告されていて、評価はまだ定まっていないようです。
錯覚は「期待」で作られているのか
ところが2020年、イギリスのサセックス大学のピーター・ラッシュたちが、この分野に一石を投じる研究を発表しました。
ラッシュたちは、353人の参加者に、ラバーハンド錯覚の実験と、暗示にどれくらいかかりやすいかを測るテストの両方を受けてもらいました。その結果、暗示にかかりやすい人ほど、錯覚が強く起きたと答える傾向がはっきり見られたのです。
ラッシュたちは、参加者は実験の様子から「こう感じることが求められているのだろう」と察して、本当にそう感じられるように、自分の体験を無意識のうちに調整しているのではないか、と考えました。タイミングをずらした条件で錯覚が弱まるのも、参加者がそちらでは錯覚が起きないはずだと予想しているからかもしれない、という指摘です。
これに対して、エーションたちは2022年に、暗示へのかかりやすさと錯覚の強さとのあいだには、ラバーハンド錯覚に特有の関係は見られないとする反論を発表していて、論争は今も続いています。私は、この論争がどちらに決着しても、体の感覚が見たものや予想によってここまで変わるという点では、ラバーハンド錯覚の不思議さは少しも減らないように思えます。
ラバーハンド錯覚についてよく出る疑問
家でも試せますか?
ゴム手袋に綿などを詰めて手の形にしたものと、ついたてになる板、筆が2本あれば、2人で試すことができます。なでる場所とタイミングをできるだけそろえて、しばらく続けるのがコツだとされています。ただ、錯覚の起きやすさには個人差が大きく、まったく感じない人も少なくないので、感じなくても心配する必要はありません。
なぜ脳はこんなにだまされやすいのですか?
ふだんの生活では、目で見ている自分の手と、体で感じている自分の手が食い違うことはほとんどありません。脳は、目で見た情報と体の感覚がそろっているときには、それを同じ1つの体の出来事として扱うようにできていて、その仕組みは成長や体の変化に合わせて体の感覚を調整し直すのに役立っていると考えられています。ラバーハンド錯覚は、その仕組みをうまく突いた、いわば例外的な状況なのでしょう。
関連する実験と記事
自分を自分として認識しているかを、鏡に映った姿で確かめるミラーテストも、自分の体をどう知っているのかを扱った実験です。
自分が見ている世界は、すべて脳が作り出したものではないか、という問いは、思考実験の「水槽の脳」でも扱っています。
まとめ
本記事はラバーハンド錯覚について解説しました。如何だったでしょうか。
隠れた自分の手と目の前のゴムの手を同じタイミングでなでるだけで、ゴムの手が自分の手のように感じられ、自分の手の位置の感覚までずれてしまうという実験は、「この体は自分のものだ」という感覚が、見たものと感じたものの組み合わせから作られていることを示しました。ゴムの指を反らされると思わず身をすくめるほど、その錯覚は体の反応にまで表れます。
一方で、その感じ方には参加者の期待が入り込んでいるのではないかという論争もあって、錯覚がどこまで「見たまま」で、どこからが「そう感じるはずだ」という予想なのかは、まだはっきりしていません。自分の体という一番身近なものでさえ、思っているほど確かなものではないのかもしれません。
ほかの有名な心理学実験は、一覧の記事からまとめて読めます。
それでは次の記事も閲覧いただけると幸いです。
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