当サイトを閲覧いただきありがとうございます。 本記事は「善きサマリア人の実験」について解説します。
善きサマリア人の実験は、1973年にアメリカの心理学者ジョン・ダーリーとダニエル・バトソンが、牧師を目指す神学校の学生たちが、道で苦しんでいる人を助けるかどうかを調べた実験のことです。新約聖書にある「善きサマリア人」のたとえ話を下敷きにしていて、人が困っている人を助けるかどうかを決めるのは、その人の性格や信仰なのか、それともその場の状況なのかを確かめようとしたものでした。
たとえ話では、強盗に襲われて道に倒れていた人の横を、祭司やレビ人といった宗教的に立派なはずの人たちが通り過ぎ、ふだん見下されていたサマリア人だけが立ち止まって介抱します。ダーリーとバトソンは、通り過ぎた祭司たちは単に急いでいただけなのではないか、と考えました。
そして実験の結果は、その予想をかなり強く裏付けるものでした。困っている人を助けるかどうかは、信仰の深さとはほとんど関係がなく、急いでいるかどうかで大きく変わったのです。直前まで善きサマリア人のたとえ話について考えていた学生でさえ、急いでいると倒れた人の横を通り過ぎていきました。
もとになったたとえ話
善きサマリア人のたとえ話は、新約聖書のルカによる福音書に出てきます。ある律法の専門家がイエスに「私の隣人とは誰ですか」と尋ねたのに対して、イエスが語ったとされる話です。
エルサレムからエリコへ下る道で、ある人が強盗に襲われ、服をはぎ取られて、半殺しの状態で道に倒れていました。そこを通りかかった祭司は、その人を見ると道の反対側を通って行ってしまい、神殿に仕えるレビ人も同じように通り過ぎます。ところが、当時ユダヤの人々と対立していたサマリア人の旅人は、その人を気の毒に思って傷の手当てをし、自分のろばに乗せて宿屋まで連れて行き、翌日には宿屋の主人にお金を渡して世話を頼みました。
イエスは最後に、3人のうち誰が倒れた人の隣人になったと思うかと尋ね、「行って、同じようにしなさい」と告げます。ダーリーとバトソンの論文の題名「エルサレムからエリコへ」も、このたとえ話の舞台から取られていました。
神学生に「話をしてください」と頼む
実験の対象になったのは、アメリカのプリンストン神学校で学ぶ学生たちです。最初に67人が、宗教教育と職業についての研究だと説明されて、自分の信仰への向き合い方を尋ねる質問紙に答え、そのうち日程の合った47人が実験に参加しました。分析の対象になったのは、そのうちの40人です。
その後、学生たちは、別の建物に移って短い話をしてほしいと頼まれます。話のテーマは2種類あり、半分の学生には神学校を出た後の仕事について、もう半分の学生には善きサマリア人のたとえ話について話してもらうことになっていました。
急がせ方を3段階に分ける
さらに、移動の前にかける言葉で、学生たちの急ぎ具合が3通りに分けられていました。
| 条件 | 移動前にかけられた言葉(趣旨) |
|---|---|
| 急いでいない | まだ少し時間があるが、そろそろ向かってもよい |
| 少し急ぐ | 準備ができているので、すぐに向かってほしい |
| とても急ぐ | もう遅れている、向こうで待っているので急いでほしい |
路地にうずくまる男性
学生たちが別の建物に向かう途中の路地には、実験の協力者が演じる男性がいて、戸口にうずくまり、目を閉じて頭を下げていました。学生がそばを通りかかると、男性は2回せき込み、うめき声を上げます。学生が立ち止まって声をかけると、男性は驚いたように、「ああ、ありがとう……いえ、大丈夫です。呼吸器の持病があって、医者にもらった薬をさっき飲んだところなんです。少し座って休めば良くなります」と答えることになっていました。それでも学生が引き下がらず、建物の中に連れて行こうとした場合には、男性はそれを受け入れてお礼を言う、という段取りです。
学生の行動は、男性に気づかなかった、気づいたが助けなかった、立ち止まらなかったが後で誰かに知らせた、立ち止まって声をかけた、建物の中まで連れて行った、男性が大丈夫だと言ってもその場を離れなかった、という6つの段階に分けて記録されました。
急いでいると助けなかった
全体で見ると、男性に何らかの形で手を差し伸べた学生は40人中16人、40%でした。急ぎ具合ごとに分けると、その割合ははっきり違っていました。
急いでいない学生では63%が助けようとしたのに対し、少し急いでいた学生では45%、とても急いでいた学生では10%しか助けようとしなかったのです。とても急いでいた学生の中には、うずくまる男性を文字どおりまたいで通り過ぎた人もいたと報告されています。
論文の中で研究者たちは、「生活の速度が上がるにつれて、倫理はぜいたく品になる」というよく言われる説明は、少なくとも起きていることの描写としては正確だろう、と書いています。
たとえ話について考えていても変わらなかった
一方で、話のテーマによる違いは、それほど大きくありませんでした。善きサマリア人のたとえ話について話す予定だった学生では53%、仕事について話す予定だった学生では29%が助けていて、たとえ話の学生のほうがやや多かったものの、統計的にはっきりした差とは言えない程度だったとされています。
困っている人を助けることの大切さを説くたとえ話について、まさにこれから話そうとしている神学生が、急いでいるとその場面に出くわしても通り過ぎてしまう。研究者たちは、この点を特に皮肉な結果として強調しました。
信仰の深さでは予測できなかった
最初に答えてもらった質問紙では、信仰を生きる目的そのものとして大切にしているか、救いや安心を得るための手段と考えているか、答えを探し続ける問いとして向き合っているか、といった信仰への向き合い方を測っていました。しかし、こうした信仰のタイプは、学生が倒れた男性を助けるかどうかをほとんど予測しなかったそうです。
「助けすぎる」学生もいた
ただ、信仰のあり方は、どう助けるかには表れていました。助けた学生の中には、男性が何度「もう大丈夫です」と言っても立ち去らず、コーヒーに連れ出そうとしたり、信仰の話を始めたりする学生がいて、次の参加者が来てしまうのではないかと、演じていた男性のほうが焦るほどだったそうです。
研究者たちは、相手の言葉を聞かずに自分の決めた助け方を押し通すこの行動が、教義を厳格に信じる傾向の強い学生に多かったと報告しています。反対に、信仰を問い続けるものとして向き合う学生は、男性の言葉に合わせて控えめに助ける傾向がありました。助けるかどうかは状況で決まっていた一方で、どう助けるかには、その人の考え方が表れていたわけです。
冷たかったのか、板挟みだったのか
この実験は、「人は急いでいると冷たくなる」ことを示したものとしてよく紹介されます。ところが、ダーリーとバトソン自身は、1973年の論文の中ですでに、この読み方に疑問を示していました。
実験の後の聞き取りでは、急いでいた学生のほとんどが、振り返ってみればあの男性は助けが必要だったかもしれないと話していて、その場では、状況を倫理的な判断が必要な場面として受け取ってさえいなかったようだったのです。一方で、男性の前を通り過ぎた後、落ち着かない様子を見せた学生もいました。研究者たちは、急いでいた学生は、自分を待つ研究者を助けることと、目の前の男性を助けることの間で迷っていたのではないか、と考えています。
この考えを確かめたのが、5年後の1978年にバトソンが仲間と行った別の実験でした。
この実験では、大学生に別の建物へ移動してもらう際、急ぎ具合に加えて、自分のデータが研究にとってどれだけ大事かを変えて伝えました。その結果、急いでいても、自分のデータがそれほど大事ではないと聞かされていた学生は、途中でうずくまる人を助けることが多く、助けなかったのは、自分を待っている研究者のためにも急がなければならないと思っていた学生のほうでした。
バトソンたちはここから、急いでいる人が助けないのは、困っている人への思いやりが消えたからではなく、待っている相手と、目の前の困っている人との間で板挟みになっているからではないか、と考えています。神学生たちも、自分を待つ研究者を助けることを選んでいたのかもしれない、という見方です。正直、急いでいた人を冷たいと責めるより、その人を急がせている事情のほうに目を向けるべきだという指摘には、私はかなり納得がいくと感じています。
この実験の限界
善きサマリア人の実験は今でも教科書によく載っていますが、参加者は40人で、急ぎ具合3通りと話のテーマ2通りを組み合わせた6つの条件に分けると、1つあたりは平均7人ほどとかなり少なめです。急ぎ具合の差ははっきり出ていたものの、テーマの違いのように小さな差については、この人数では確かなことを言うのは難しかったと思います。
また、参加者は全員が同じ神学校の学生で、場所も1つの大学のキャンパスに限られていました。路地にうずくまる男性を見て、本当に助けが必要な状況だと受け取ったかどうかも人によって違ったはずで、通り過ぎた学生の中には、そもそも状況をよく見ていなかった人もいたと考えられています。
それでも、人の行動を予測するには、その人の性格や信念よりも、その人が置かれた状況を見たほうがよい場合があるという点を、ここまで印象的に示した実験はそれほど多くないのではないでしょうか。
善きサマリア人の実験についてよく出る疑問
なぜ神学生が対象だったのですか?
研究者たちは、信仰の深い人ほど困っている人を助けるのか、そして助けることの大切さを考えた直後の人ほど助けるのかを確かめたいと考えていました。困っている人を助けることを説く立場を目指す神学生は、そうした考えがもっとも行動に表れやすいはずの人たちだったと言えるでしょう。その人たちでも急いでいると助けなかったことが、この実験の結果をいっそう印象的なものにしたのだと思います。
「善きサマリア人法」と関係があるのですか?
直接の関係はありません。善きサマリア人法は、急病人などを善意で助けた人が、結果がうまくいかなかったときに責任を問われにくくする法律のことで、名前はどちらも同じたとえ話から取られています。日本には同じ名前の法律はありませんが、民法の緊急事務管理の規定が、似た役割を果たすものとして紹介されることがあります。
関連する実験と記事
緊急の場面で、周りに人が多いほど助けに動きにくくなることを調べたのが、同じダーリーが関わった傍観者効果の研究です。
人の行動の原因を、状況ではなくその人の性格に求めすぎてしまう心理は、認知バイアスの記事で詳しく扱っています。
まとめ
本記事は善きサマリア人の実験について解説しました。如何だったでしょうか。
牧師を目指す神学生でも、急いでいると路地にうずくまる人を助けた割合は10%にとどまり、直前まで善きサマリア人のたとえ話について考えていたかどうかや、信仰への向き合い方では、助けるかどうかはほとんど変わりませんでした。人を助けるかどうかを決めていたのは、性格よりもその場の状況だったというのが、この実験の一番の結論です。
ただ、後の実験を踏まえると、急いでいる人は冷たくなったというより、待たせている相手と目の前の人との間で板挟みになっていた、と読むこともできます。誰かが道でうずくまっているのに気づいたとき、自分は今、何に急がされているのかを一度だけ考えてみる。この実験から持ち帰れることは、そのくらいの小さな習慣なのかもしれません。
ほかの有名な心理学実験は、一覧の記事からまとめて読めます。
それでは次の記事も閲覧いただけると幸いです。
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